盗まれた印鑑と通帳での預金払い戻しは有効か
民事|民法478条|準占有者に対する弁済と銀行に要求される注意義務の内容|偽造カード等及び盗難カード等を用いて行われる不正な機械式預貯金払戻し等からの預貯金者の保護等に関する法律
目次
質問:
私はサラリーマンなのですが、銀行の通帳をしばらく見ていなかったことに気付き、紛失したかと思って、届出印を持って、銀行に手続きに行ったところ、預金500万円がほとんど引き出されていたことが判明しました。銀行の担当者がいうには、一ヶ月前に、窓口に通帳と印鑑を持った人が現れ、引き出して行ったということでした。印鑑は手元にあるので、印影が同じだとしたら、偽造したものだと思います。銀行は、預金通帳と印鑑が適合していたので払い戻しに応じたそうです。銀行に対して、責任を問うことはできないでしょうか。
回答:
1.基本的に、盗難にあった通帳と偽造印鑑を持参した人に対する銀行の払い戻しは、善意で過失がない限り、準占有者(民法478条)に対する弁済として有効となります。
2.過失とは、銀行が金融取引担当者として要求される一般的注意(善管注意義務)をすれば、払い戻し請求者が正当な権利者でない事を確認できたのにしなかった場合です。
3.本件の場合、盗難にあったという貴方の方にも責任はありますが、一度に引き落とした金額が500万円という高額ですし、過去にそのような取引例がほとんどないようであれば、通帳印鑑持参者に身分証明を明らかにする手続、例えば身分証明書等の提示、本人確認の生年月日、暗証番号等の質問、確認をしていないようですので、銀行側の「過失」が認定される可能性が高いと思われます。従って、払い戻しは無効であり、貴方は再度預金の支払いを請求できる事になるでしょう。
4.但し、通帳、印鑑の保管方法について、貴方に重大な過失責任(紛失、第三者に預けた場合)がある場合は、民法418条過失相殺の規定を類推適用して、預金債権請求額を減額される可能性があります。
5.尚本件は、盗難通帳によるATM機での払い戻しではありませんから適用はありませんが、平成18年に成立した偽造カード等及び盗難カード等を用いて行われる不正な機械式預貯金払戻し等からの預貯金者の保護等に関する法律も参考にしてください。
6.又、本件のように個々の払い戻しではなく、銀行等金融機関の基本的預金契約における本人確認義務は、現在、平成20年3月1日施行犯罪による収益の移転防止に関する法律により規定されています。それに伴い「金融機関等による顧客等の本人確認等及び預金口座等の不正な利用の防止に関する法律(平成14年法律第32号)」(本人確認法)は廃止されましたが、金融機関との取引に際して行われる本人確認の内容は基本的に変更されていません。
7.本人確認義務に関する関連事例集参照。
解説:
1.預金契約の法的性質
民法上、貴方と銀行の預金契約は、預った金員を銀行側が消費でき同額の物を返還すればいいのですから、消費寄託契約に該当します(民法666条)。消費貸借の規定が準用されていますが、消費貸借と違い寄託者のための契約(銀行取引で言えば預金者のための契約)であるところに特色があります。銀行は、預った金員同額を預金者本人に返す義務がありますから、第三者に払い戻しをしても返還義務を履行したことにはなりませんので、債務について免責されることはありません。しかし、銀行は、本人の預金通帳と偽造されたとはいえ真正と思われる印鑑の持参者に払い戻しをしておりますから、民法478条の債権の準占有者に対する弁済に該当し、免責されるのではないかという問題が生じてきます。
2.債権の準占有者への弁済
民法478条は、本来の権利者でなくても債権者のような外観を有する者に対して弁済した債務者の信頼を保護し、債務弁済行為を円滑、迅速にし適正な取引行為を維持するために規定されています。契約自由の原則(私的自治の法理)から言えば、契約内容は守られなければなりませんから、いかなる事情があろうとも債務者が権利者以外の人に弁済しても有効にならないはずです。しかし、債権者らしき外観を有する者に対し、債権者と信じかつ信じることがやむを得ないで(善意、無過失)弁済したのに債務者が免責されないとすると、債務者としては二重払いの危険を回避するために、その都度、真の権利者かどうか詳細に調査することになり、契約で最も重要な決済、弁済が遅延し円滑迅速な取引が出来なくなってしまいます。しかし、契約自由の原則の本来の目的は、適正迅速な取引社会の形成維持にありますから、債務者が債権者と信じ、信じることがやむを得ない場合には、これを例外的に保護し、真の権利者を犠牲にして円滑な取引行為を維持しようとしたのです。これが準占有者に対する弁済です。本条は、例外的規定ですし、真の権利者を犠牲にするものであり取引の安全(動的安全)と権利者利益(静的安全)をどう調和するかという問題(民法の問題はすべてこの課題に帰着します)ですから、債権者と信じることがやむを得ないとはどのような場合かを個別具体的に検討する必要があります。例えば、当該取引行為の内容、過去の経過、準占有者の言動、弁済者の地位、業務職種内容、具体的対応手続の実現可能性、慣例、外観を有すると判断する具体的内容、持参書類、等をその時々の経済取引事情を基にして総合的に判断することになります。
3.通帳と偽造印を持参した者は準占有者か
先ず、通帳と偽造された印鑑を持ってきた人が「債権の準占有者」に該当するかという問題ですが、債権の準占有者とは、取引通念上債権者らしい外観を有する者と解釈されています。準占有とは、物(物の場合占有権となります)以外の財産権を自己のためにする意思を持って現実に支配することですから(民法205条)、債権を現実に支配している状態を意味します。事実的支配すなわち支配の外観を意味するので、債権という権利を正当に有しているかどうかは無関係です。本件では、通帳と印鑑を持って銀行窓口に現れた人は、外形上あたかも預金債権を有しているものと判断する事ができますので、債権の準占有者ということになります。
4.銀行担当者の無過失性
次に、窓口担当者は、持参した通帳、偽造された印鑑のみを照合し預金債権者と信じて支払いに応じていますが、銀行員として「無過失」であったかどうかが問題となります。具体的に言えば、通帳、印鑑照合の他に本人確認手続すなわち、身分証明書等の確認、生年月日、住所、キャッシュカード暗証番号の確認をする義務があるかどうかが問題になります。
5.追加の本人確認の要否
①基本的には、通帳と印鑑(偽造でも)の照合だけで注意義務を果たしたといえますが、銀行側からみて正当な権利者であるかどうか不審な状況がある場合には、更に本人確認手続を行う注意義務が生じるものと考えるべきです。不審な点があるかどうかの判断は、支払いを行った当該銀行担当者側の具体的能力、事情ではなく、適正に銀行業務を行う金融業者として客観的に要求される水準を基にして、預金者が個人か業者であるか、払い戻し行為の金額、過去の取引履歴、準占有者の払い戻し時における一切の言動、取引場所が口座開設場所か他の支店か、等を総合的に判断される事になります。
②無過失とは、注意義務を怠っていないことを意味しますが、この場合の注意義務の程度は、取引当事者の社会的地位に応じて客観的に求められる善管注意義務ということになります。
③民法の体系上取引行為における当事者の注意義務の基本は善管注意義務であり、無償寄託物の保管に関する自己と同一の注意義務は寄託者にのみ利益が存するという事情から認められた例外です(民法659条)。対等な取引行為である以上、相手方の利益を保護しなければならないからです。特定物の引渡しにおける善管注意義務(民法400条)、受任者の善管注意義務(644条)は例示的なものです。銀行は商人であり、当然に善管注意義務を負うことになります(商法593条)。又本条は例外規定ですから、免責を認める主観的要件は厳格に解釈せざるを得ないからです。
④以上から、不審性の判断も支払いを行った当該銀行担当者の具体的能力、事情ではなく、適正に銀行業務を行う業者として客観的に要求される水準を基にして、注意義務違反があったかどうかを個別具体的、総合的に判断することになります。
6.本件における具体的検討
本件の場合銀行担当者は、準占有者の本人確認をする義務があり、銀行側に過失を認定する事が可能と思われます。その理由ですが、
①銀行の窓口担当者は、金融取引の専門的知識に精通しており、過去の取引履歴を参照すれば一般家庭において1度の払い戻しで500万円の引き出しは、通常の取引からみてあまりに高額であることを察知できる状況であったと思われ、引き出すものが通帳、印鑑を持参しても異常な取引として一旦取引を中断し、更なる本人確認手続をとる必要性が認められるからです。
② 近時、印鑑の精巧な偽造による預金引き出しは問題になっているところであり、そのような金融事件情報を感知出来る立場にある以上、印鑑の照合のみでは取引専門家としては十分な注意を払ったとはいえません。
③本人確認手続としては、身分証明書の提示、住所、生年月日、電話番の確認が窓口で費用、時間もかけないで簡易的方法として可能であったにもかかわらず履行されていません。
④通帳が盗難にあい、1ヶ月以上も放置していた事情がありますが、債権者側の過失が弁済者の客観的善管注意義務を軽減する事にはなりませんから、それをもって銀行免責の根拠とは出来ません。
⑤但し、銀行側の過失が認められ預金2重払いの問題になった時、預金者の過失が過大であれば民法418条過失相殺の規定の類推により預金者の預金返還請求が減額される可能性は残ると思われます。
⑥尚、現在東京三菱UFJ銀行では100万円以上の支払いには、本人確認手続が必要とされているようです。
7.判例紹介
①福岡高等裁判所判決、平成18年8月9日預金返還請求控訴事件。旅館の経営者が客に通帳印鑑を盗まれ(犯人逮捕)犯人が、経営者の弟に成りすまし銀行で600万円引きおとしたことについて、払い戻しの際種々の不審な点があったのにもかかわらず、預金者の個人情報を確認もせず、その者の身分証明を求め、電話で問い合わせをするなどして確認すべきであったのに、これを怠ったとして支払った銀行に過失を認めています。不審な点としては事業者といえども600万円は預金のほぼ全額であり過去の取り扱いがなく高額である点。窃盗犯が通帳を基に当初600万円の小切手発行を銀行に求めたのに小切手の知識がなく不自然な行動をとっていたこと。過去当該支店での払い戻しがなかったこと等です。債権者(旅館経営者)が客に通帳印鑑の保管場所を説明し、不在期間を明らかにした点を捉え第1審は債権者の過失を認め過失相殺20%を控除しました(控訴審では破棄されました)。妥当な判決でしょう。
②大阪地方裁判所 平成19年5月25日判決、平成18年(ワ)第7564号(預金払戻し請求事件)。不動産売買を行う有限会社の印鑑通帳を利用して(盗難か紛失かは不明)、ほぼ預金全額に当たる277万円の払い戻しについて、銀行側の本人確認手続を不要として無過失を認めています。過去の取引履歴は最高が17万円であり、口座開設以外の支店での取引です。本件は、本人の通帳印鑑の管理についての内容が不明であり(盗難かどうかも不明)、窓口での準占有者について不審な点はないとしています。金額の点で問題点はありますが不動産業者でありやむを得ない判断でしょう。
③大阪地方裁判所 平成18年4月11日判決、平成17年(ワ)第2408号(預金払戻請求事件)。この事件は、1100万円の支払いですが、預金者(クラブのママが強盗にあう)以外の人が通帳、印鑑を所持し、新住所記載、暗証番号(キャッシュカード)、運転免許証の確認をしていれば(免許証の写真も本人と似ていたという事情がある場合)、本人と誤信したことについて無過失と判断しています。1100万円の支払い、口座開設以外の支店での支払いであり、本人への確認連絡はしていませんが、無過失といえるでしょう。
④最高裁判例(昭和46年6月10日判決)は、準占有者の弁済について判断したものではありませんが、当座勘定取引契約に基づき印鑑を偽造された約束手形の支払いをした銀行の注意義務を明らかにしたものです。銀行の善管注意義務を前提にして、届出印影と払戻請求者の提示した印影との間に、事前に習熟している銀行員が業務上相当な注意をもって慎重に照合した場合に発見できるような相違があった場合(印鑑の大きさが違っていた)は銀行側に過失を認めています。これに反する免責約款の効力を認めませんでした。従って、準占有者の弁済においては、通帳と偽造印鑑による払い戻しについて参考になるものと考えられます。判例を参照します。「おもうに、銀行が当座勘定取引契約によって委託されたところに従い、取引先の振り出した手形の支払事務を行なうにあたつては、委任の本旨に従い善良な管理者の注意をもつてこれを処理する義務を負うことは明らかである。したがつて、銀行が自店を支払場所とする手形について、真実取引先の振り出した手形であるかどうかを確認するため、届出印鑑の印影と当該手形上の印影とを照合するにあたつては、特段の事情のないかぎり、折り重ねによる照合や拡大鏡等による照合をするまでの必要はなく、前記のような肉眼によるいわゆる平面照合の方法をもつてすれば足りるにしても、金融機関としての銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待されている業務上相当の注意をもつて慎重に事を行なうことを要し、かかる事務に習熟している銀行員が右のごとき相当の注意を払つて熟視するならば肉眼をもつても発見しうるような印影の相違が看過されたときは、銀行側に過失の責任があるものというべく、偽造手形の支払による不利益を取引先に帰せしめることは許されないものといわなければならない。このことは、原審が認定しているように、当座勘定取引契約に、「手形小切手の印影が、届出の印鑑と符合すると認めて支払をなした上は、これによつて生ずる損害につき銀行は一切その責に任じない」旨のいわゆる免責約款が存する場合においても異なるところはなく、かかる免責約款は、銀行において必要な注意義務を尽くして照合にあたるべきことを前提とするものであつて、右の注意義務を尽くさなかつたため銀行側に過失があるとされるときは、当該約款を援用することは許されない趣旨と解すべきである。」
⑤以上のように近時の判例は、たとえ印影が同一と判断されても、払い戻し請求権者に氏名、生年月日を聞いたか、払い戻し請求書に誤記がないか、通帳名義人と払い戻し請求者の性別が同じであるか、払い戻し請求が口座開設店と同じ支店であるか、全ての残高を払い戻すようなものではないか、(複数回だとしても)近接して払い戻しがされていないか、そのような払い戻しの態様が過去の取引履歴と比べて差異がないか、など、当該払い戻しにかかる客観的状況から、銀行の過失の有無を判断するような傾向があります。
8.平成18年の法改正
なお、近時、特にATMからの不当払い戻し事例が増加していることをうけ、平成18年2月から、偽造カード等及び盗難カード等を用いて行われる不正な機械式預貯金払戻し等からの預貯金者の保護等に関する法律(いわゆる預金者保護法)が施行されました。
9.ATMからの払い戻しの場合
「預金者保護法」では、ATMからの払い戻しについて、これまで述べてきたような民法上の原則に特例を設け(第3条)、不正払い戻しがあった場合に銀行が全額補償することを事実上の原則としています。この法律の制度趣旨は、簡単に言うと違法な払い戻しに責任がない預金者の保護です。偽造、盗難カード、通帳によりATM機械払い戻しの場合でも窓口での支払いと同じ様に準占有者に対する弁済の問題が生じます。今までの判例に従えば銀行側としては、カード、通帳行使している者が例え権利者でなくてもカード、通帳を使用している限り預金者の概観を有するのですから債権の準占有者であり、ATM機である以上権利行使者の不審性を確知する事は出来ませんし、精巧な偽造を見抜く機械がない以上、支払いについて銀行側は善管注意義務を果たしたことになり無過失ということにならざるを得ません。しかし、預金者とすれば自ら直接関知しない偽造、盗難による場合払い戻しの責任を全て負わせることは不公平ともいえます。元々、準占有者への弁済規定は取引の安全と静的安全(真の権利者保護)の調和の問題であり、銀行取引により利益を得ている金融機関と単なる消費者の実質的公平を図り偽造、盗難カードに限り例外的に準占有者に対する弁済の過失の要件を厳格にし適用を排除したのです。従って、預金者に責任が認められる場合は、原則に戻り準占有者に対する弁済の効果が認められることになります。又、遺失、紛失の場合当該法律の適用はありませんし、預金者の帰責度を考慮し偽造カード、通帳の不正利用と、盗難カード・通帳の不正利用で預金者の保護の扱いを異にします。
10.偽造カード・通帳の場合
まず、偽造カード・通帳の場合は、預金者に、故意があるか、又は、預金者に重過失があって、かつ金融機関が無過失であるというような場合でなければ、銀行は免責されません(第4条)。通常偽造について預金者側に責任を認めることは出来ないからです。
11.盗難カード・通帳の場合
(1)一方、盗難カード・通帳の不正利用の場合は、預金者に真正なカード、通帳の保管義務がありますから、要件を厳格にしています。①預金者がカード・通帳が盗難にあったことを速やかに銀行に通知し、②銀行に対して、盗難の事情、状況について説明し、③警察に被害届けを出したことを金融機関に報告することによって預金者が保護されます(第5条1項)。
(2)又、預金者の過失の度合いにより損害の公平な分担を図っています。預貯金者に過失があり、かつ、銀行が善意・無過失の場合には、被害額の4分の3しか補償をうけられず、預金者に故意・重過失がある場合には、補償を受けることができません(第5条2項)。例えば、本人が他人に暗証番号を知らせた場合や、カード上に暗証番号を記載したような場合には、重過失ありとして、補償されないことになります。また、過失がある場合として考えられるのは、銀行から、生年月日等の類推されやすい暗証番号から、別の番号に変更するように、個別、具体的、複数回にわたる働きかけが行なわれたにもかかわらず、生年月日、自宅の住所・地番・電話番号、勤務先の電話番号、自動車などのナンバーを暗証番号としていて、かつ、暗証番号を推測させる書類等(パスポート、免許証など)とともに携行していた場合、などが考えられます。なお、これらの故意・過失等の立証責任は預金者の保護という趣旨から銀行側にあることになります。勿論銀行にカード、通帳紛失を届け出た後に引き出されるということはないでしょうから、この規定は紛失届け出前に引き出された場合を予想しています。
以上