新銀座法律事務所 法律相談事例集データベース [相談]2年前に父が死亡しましたが、私の弟(長男)にすべてを相続させるという公正証書遺言があったので、特に相続放棄の手続きをしませんでした。そうしたら、最近弟が経営していた会社が倒産し、父の債権者から借入債務の弁済を請求されるようになりました。私は相続放棄をしていない以上、払わなくてはいけないのでしょうか。大きな金額なので、破産しか道はないのですか。 2.前記平成12年12月7日東京高等裁判所の判例は、それまでの最高裁の判例(後記掲載参照)と文言上異なりますが、取引の安全と一般的に相続財産の調査を必要としないような相続人の保護を調和する妥当な解釈と考えられます。唯、事案によっては相続放棄できるかどうか不明な点もありますので一度弁護士に相談してみましょう。 3.この件については、事例集bV54号も参考にしてください。 [解説] 2.次に、本件のように遺言によりすべての財産、債務を共同相続人の1人に相続させた場合、相続人間では問題ないにしても相続債権者に対する関係で債務の帰属関係はどうなるか問題となります。もし相続債権者に対しても有効であれば、そもそも債権者は、遺言により具体的相続分がない貴方に対して父の負債の請求ができないことになるからです。この点、条文899条は「その相続分に応じて被相続人の権利義務を承継する。」と規定していますが、この「相続分」とは法定相続分を指すか、具体的な相続分(さらに遺言による指定相続分を指すか、遺産分割による具体的相続分かも問題です)を意味するか解釈する必要があります。結論を言えば、債務の相続の場合相続分とは法定相続分を意味し、これに反する遺言、遺産分割協議は対相続債権者に対して効力を有しないものと考えます。理由をご説明いたします。理論的に言うと積極財産は本来の権利者である被相続人が自由に遺言により処分できますが、債務者は自らの債務について利害関係を有する債権者の了承なく自由に処分することはできない性格を有するので積極財産と一緒に論ずることができません。被相続人であろうと、各相続人であっても自らの債務の内容を債権者の了解なく処分変更できないのです。債権であれば、誰が債権者かは債務者にとり重要なことではなくそれゆえに債権譲渡は自由なのです(民法466条)。しかし、債務は履行するかどうか債務者の財産、性格により左右されますので債務者自身が勝手に内容を変更できないのです。従って、本件のように被相続人が全財産と債務を長男に相続させると遺言をしても(遺産分割で長男一人に債務をおわせても)相続債権者には主張、対抗できず、債権者は依然として法定相続人である貴方に法定相続分に従い請求権を有するのです。何も受け取っていない貴方が法定相続分に従い負債だけを負うのはおかしいように思いますが、それを前もって回避するために相続放棄手続き(民法915条)が用意されています。 3.では、肝心の相続放棄は今からでも可能でしょうか。貴方はお父さんが2年前に亡くなっていることを知っていますので、民法896条は「自己のために相続の開始があったことを知った時から三箇月以内」に放棄しなければならないと規定していますから放棄ももはやできないようにも思えます。しかし、遺言により具体的相続分がないので相続放棄手続きもとらなかった貴方の行動もやむを得ない事情があると思います。そこで「自己のために相続の開始があったことを知る」とはどういう意味か相続放棄の制度趣旨からもう一度考えてみましょう。 4.(相続放棄の制度趣旨について)私有財産制をとるわが国では被相続人の死亡により、相続人の財産はもともとの所有者の意思(遺言)推定的意思(法定相続)により死亡と同時に相続が発生し相続人に権利が自動的に移転します(民法896条)。相続財産とはいってもその中には、被相続人の積極財産だけでなく、その債務も含まれ相続人に承継されます(包括承継、そのため896条は権利義務と規定しています)。相続人としては財産だけ相続したいでしょうが、相続財産は被相続人の債権者の担保となっているものでありこれを切り離すことはできません。相続は死亡により突然発生しますので(遺言の場合も相手方のない単独行為であり死亡で効力が当然発生します。遺言は取消などと異なり死亡により効力が生じ相続人等相手方への意思表示の到達を必要としませんので相手方がいない単独行為といわれています)、プラスの財産の多い被相続人ならいいのですが、マイナスの財産が多い場合には、相続により相続人が当然に債務を抱えてしまうことになってしまいます。相続の根拠は最終的に被相続人の意思に根拠がありますが、財産にマイナスの負債も含まれる以上相続財産を受ける相続人側の意思を無視することはできません。そこで、民法では相続放棄の制度が定められています(民法915条から919条、938条から940条)。相続人は、自らの意思とは無関係に突然発生した権利変動について自らの利益を守るため相続を拒否するかどうかの選択する自由を有するのです。しかし、相続財産には負債も含まれ相続債権者にとってその財産は大切な担保としてあり、債務者がいったい誰になるかは重要な問題であり、確定しないと取引関係を安心して継続することはできません。それに、わが国では家制度による家長単独相続の風習が残り相続放棄により事実上相続平等の原則が侵される危険が未だ残されています。 5.そこで、まず相続放棄をする場合は、画一的に公示するため公の機関である家庭裁判所で相続放棄の申述をして決定という裁判所の公的判断が必要になります(法938条)。又、放棄を何時までも自由に認めると相続人が不確定になり取引関係が停滞してしまいますので法は、3ヶ月間の熟慮期間を決め(法915条)、これを経過すると一律的に相続を承認し取引関係の安定を図ったのです(921条2号)。但し、相続財産複雑な場合その調査に時間がかかる場合もあり、熟慮期間伸長の制度も用意されています(民法915条1項但し書き)。以上のように、相続放棄の制度は相続人の利益と、取引の維持安全の利益を調和して規定されているのです。 6.(知ったときの意味内容)そこで「自己のために相続の開始があったことを知った時」とは具体的にどういうことをいうのでしょうか。これについては、通常「被相続人の死亡の事実と自分が相続人となったことを知った時」と考えられます。自分が相続人であることを知った以上速やかに相続財産の内容を調査して承認するか放棄するか決めることができるからです。 7.本件では2年前に相続が開始し法定相続人になったことを知っていますから放棄はできないようにも思いますが、本件のように遺言より通常具体的相続分がないような場合又、遺産、債務が全くないと思ったような事情があれば相続人は相続に無関心で相続財産を調査し放棄手続きをしないのが一般です。 8.そこで最高裁判所は昭和59年4月27日判決(後記参照)で例外的に相続が開始したこと知っていたとしても、相続放棄しなかった合理的理由がある相続人を救済するために3か月の進行開始時期について以下のような判断を行いました。この事案は、相続人である子供達が家を出て、親子の交渉が途絶えたまま10年が経過したところ、被相続人である父親の死亡を知った際、その父親に財産がなく、問題の連帯保証債務の存在も知らず、相続に関し何らかの手続きをとるなど全く念頭になく1年も経過したという事件です。判旨は「相続人において相続開始の原因となる事実及びこれにより自己が法律上相続人となつた事実を知つた時から三か月以内に限定承認又は相続放棄をしなかつたのが、相続財産が全く存在しないと信じたためであり、かつ、このように信ずるについて相当な理由がある場合には、民法915条1項所定の期間は、相続人が相続財産の全部若しくは一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべかりし時から起算するのが相当である。」という例外的判断を示しました。すなわち、相続開始、相続人になったことを知っていても相続財産が全くないと信じ、信じるについて相当な理由があれば放棄手続きを要求することは相続人に酷であり3か月の期間は相続開始を知った時から進行しないというのです。 9.この最高裁の判断には賛成です。熟慮期間は相続債権者と相続人の利益考慮、調和から解釈すべきであり、もともと相続放棄手続きを行う状況にない相続人は保護されてしかるべきだからです。相続債権者は、信義則上相続人が相続の開始を知らないことを容易に知りうべきですから何らかの請求等を行うべきです。 10.ところで本件は前期最高裁の判断によっても救済できません。相談者の方は、2年前から被相続人に相続財産(マイナス財産も)があることは知っており、自分に相続分がなかったため相続放棄の手続きを取らなかったにすぎません。現在債務の履行を請求されているのは、相続した弟さんに資力がなくなり、かつ相談者の方が相続放棄をしておらず法定相続人となっているからです。 11.しかし、遺言により具体的相続分がないので相続放棄手続きをしなかった相続人を救済する判決が現れました。東京高等裁判所平成12年12月7日決定です。決定内容です。「以上の認定事実によれば、抗告人は、被相続人が死亡した時点で、その死亡の事実及び抗告人が被相続人の相続人であることを知ったが、被相続人の本件遺言があるため、自らは被相続人の積極及び消極の財産を全く承継することがないと信じたものであるところ、本件遺言の内容、本件遺言執行者である株式会社大和銀行の抗告人らに対する報告内容等に照らし、抗告人がこのように信じたことについては相当な理由があったものというべきである。ところで、民法九一五条一項本文が相続人に対し単純承認若しくは限定承認又は放棄をするについて三か月の熟慮期間を許与しているのは、相続人が相続開始の原因たる事実及びこれにより自己が法律上相続人となった事実を知った場合には、通常その各事実を知った時から三か月以内に調査すること等によって、相続すべき積極及び消極の財産の有無、その状況等を認識し又は認識することができ、したがって単純承認若しくは限定承認又は放棄のいずれかを選択すべき前提条件が具備されるとの考えに基づいている(最高裁昭和五九年四月二七日第二小法廷判決・民集三八巻六号六九八頁)。ところが、抗告人は、自らは被相続人の積極及び消極の財産を全く承継することがないと信じ、かつ、このように信じたことについては相当な理由があったのであるから、抗告人において被相続人の相続開始後所定の熟慮期間内に単純承認若しくは限定承認又は放棄のいずれかを選択することはおよそ期待できなかったものであり、被相続人死亡の事実を知ったことによっては、未だ自己のために相続があったことを知ったものとはいえないというべきである。そうすると、抗告人が相続開始時において本件債務等の相続財産が存在することを知っていたとしても、抗告人のした本件申述をもって直ちに同熟慮期間を経過した不適法なものとすることは相当でないといわざるを得ない。」この判例によると相続財産の存在を知っていても、遺言の結果自分が被相続人の相続財産を相続することは全くないと信じ、かつそう信じることに相当な理由があったのだから被相続人の死亡により相続放棄をすることを考えもつかなかったのであり、請求を受け債務の内容を知った時から3ヶ月の熟慮期間が認められ、その間に相続放棄の手続きをとることができるというのです。妥当な判断と思います。相続債権者に不利益なようにも思いますが、相続人に請求するのであれば相続人の事情を考慮し信義則上(民法1条)戸籍等を取り寄せ相続開始後直ちに連絡、請求する等手続きを取るべきです。 12.この高裁判決は一見すると先の最高裁判例の文言に反するようにも思えますが、よく読めば互いに矛盾はなく、最高裁判例の趣旨に従ったものと思います。もともと熟慮期間の制度趣旨は、取引の安全と相続財産の内容を十分に知らない相続人の利益調和の問題であり、一般人が相続財産の調査をすることが期待できないような場合を最高裁判例が限定的に例示したものであり、東京高裁の判断は公平・信義則の原則からやむをえない事案について解釈をしたものと思います。相続放棄の期間の解釈はその制度趣旨により公正な社会秩序を維持形成すべく(法の支配の理念)、事案により常に変遷していく可能性を秘めています。なお、前記最高裁判例にも1人ですが反対意見がありましたので東京高裁判決がその後維持されるか安心はできません。 13.以上、死亡後3ヶ月以上を経過している事案で、家庭裁判所に対して相続放棄の申述を行う場合は、上記の事情を丁寧に説明する必要がありますので、弁護士に相談、協議すると手続がスムースに進む場合があります。心配であればお近くの法律事務所で御相談下さい。 (参照条文) 民法 (参照判例) 相続放棄申述却下審判に対する抗告事件、平成12年12月7日第七民事部決定(東京高裁平成12年(ラ)第2421号)
No.820、2008/12/16 11:55 https://www.shinginza.com/qa-souzoku.htm
【債務の共同相続・相続放棄・相続開始後3か月を超えても相続の放棄が認められる場合について・相続の開始を知ったときとはいつか・最高裁判例と東京高裁判例について】
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[回答]
1.一般論としては、相続人が父の死亡を知った後3か月の相続放棄の期間(熟慮期間といいます)を経過したのであれば、相続放棄はできないことになります。ただし、東京高等裁判所平成12年12月7日決定(後記掲載参照)によれば、「相続人の積極及び消極の財産を全く承継することがないと信じた場合には、当該相続人についての相続放棄の熟慮期間は、債権者から催告を受け、これにより債務の存在を知ってから三か月である」という判断がなされていることから、特別の事情があれば考慮される可能性はあります。
1.まず前提として、本件のように被相続人の債務を兄弟で共同相続した場合、債務は共同相続人にどのように帰属するかという問題があります。民法896条は、相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の「権利義務」を承継する。と定め、民法898条は「共有」と規定し、民法899条は、「その相続分に応じて被相続人の権利義務を承継する。」と抽象的に規定していますが、解釈上、相続発生と同時に債務の共有関係は解消されて法定相続分に従って当然分割された債務を相続することになります。逆の債権の共同相続と同様に考えるわけです(事例集bW08号参照)。判例(最高裁判決昭和34年6月19日)も同趣旨です。898条の共有という文言を財産法上の共有(民法249条以下)と解釈するのですが(本条の共有を、特殊な共同所有である合有と考えると各相続人が全債務を負うとの解釈が可能となります)、相続債権(相続財産を構成する債権ではなくて相続人に対する債権です)が計算上可分であれば相続人の債務も当然分割されてその範囲でのみ各相続人は債務を負うことになります。898条は、相続財産(消極財産である負債も勿論含まれます)は共有であると書いてあるのですが、共有関係と規定したそもそもの理由は不動産、動産等遺産を数量的に当然分割できない権利がありますし、遺産の公平な分配のため特に共有と規定し遺産分割協議、家事審判により分割を行おうとするものです。しかし分割可能な債務は性質上共有になじみませんし、計算上の分割が可能で権利関係が明快であり当然分割と考えても相続人に不利益はありません。むしろ当然分割されないと各相続人に全額請求の可能性があり積極財産より多く負担することになり不利益、不公平です。相続債権者(取引の安全)の面からみると債務は分割されますが、その分分割により債務者の人数も増え特に不利益とはいえません。
(分割債権及び分割債務)
第四百二十七条 数人の債権者又は債務者がある場合において、別段の意思表示がないときは、各債権者又は各債務者は、それぞれ等しい割合で権利を有し、又は義務を負う。
(債権の譲渡性)
第四百六十六条 債権は、譲り渡すことができる。ただし、その性質がこれを許さないときは、この限りでない。
(相続の一般的効力)
第八百九十六条 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。
(共同相続の効力)
第八百九十八条 相続人が数人あるときは、相続財産は、その共有に属する。
第八百九十九条 各共同相続人は、その相続分に応じて被相続人の権利義務を承継する。
(相続の承認又は放棄をすべき期間)
第九百十五条 相続人は、自己のために相続の開始があったことを知った時から三箇月以内に、相続について、単純若しくは限定の承認又は放棄をしなければならない。ただし、この期間は、利害関係人又は検察官の請求によって、家庭裁判所において伸長することができる。
2 相続人は、相続の承認又は放棄をする前に、相続財産の調査をすることができる。
第九百十六条 相続人が相続の承認又は放棄をしないで死亡したときは、前条第一項の期間は、その者の相続人が自己のために相続の開始があったことを知った時から起算する。
第九百十七条 相続人が未成年者又は成年被後見人であるときは、第九百十五条第一項の期間は、その法定代理人が未成年者又は成年被後見人のために相続の開始があったことを知った時から起算する。
(相続財産の管理)
第九百十八条 相続人は、その固有財産におけるのと同一の注意をもって、相続財産を管理しなければならない。ただし、相続の承認又は放棄をしたときは、この限りでない。
2 家庭裁判所は、利害関係人又は検察官の請求によって、いつでも、相続財産の保存に必要な処分を命ずることができる。
3 第二十七条 から第二十九条 までの規定は、前項の規定により家庭裁判所が相続財産の管理人を選任した場合について準用する。
(相続の承認及び放棄の撤回及び取消し)
第九百十九条 相続の承認及び放棄は、第九百十五条第一項の期間内でも、撤回することができない。
2 前項の規定は、第一編(総則)及び前編(親族)の規定により相続の承認又は放棄の取消しをすることを妨げない。
3 前項の取消権は、追認をすることができる時から六箇月間行使しないときは、時効によって消滅する。相続の承認又は放棄の時から十年を経過したときも、同様とする。
4 第二項の規定により限定承認又は相続の放棄の取消しをしようとする者は、その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。
(単純承認の効力)
第九百二十条 相続人は、単純承認をしたときは、無限に被相続人の権利義務を承継する。
第九百二十一条 次に掲げる場合には、相続人は、単純承認をしたものとみなす。
二 相続人が第九百十五条第一項の期間内に限定承認又は相続の放棄をしなかったとき。
(相続の放棄の方式)
第九百三十八条 相続の放棄をしようとする者は、その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。
(相続の放棄の効力)
第九百三十九条 相続の放棄をした者は、その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなす。
(相続の放棄をした者による管理)
第九百四十条 相続の放棄をした者は、その放棄によって相続人となった者が相続財産の管理を始めることができるまで、自己の財産におけるのと同一の注意をもって、その財産の管理を継続しなければならない。
2 第六百四十五条 、第六百四十六条 、第六百五十条第一項及び第二項 並びに第九百十八条第二項及び第三項の規定は、前項の場合について準用する。
最高裁昭和59年4月27日判決(昭和五七年(オ)第八二号貸金等請求事件)
民法九一五条一項本文が相続人に対し単純承認若しくは限定承認又は放棄をするについて三か月の期間(以下「熟慮期間」という。)を許与しているのは、相続人が、相続開始の原因たる事実及びこれにより自己が法律上相続人となつた事実を知つた場合には、通常、右各事実を知つた時から三か月以内に、調査すること等によつて、相続すべき積極及び消極の財産(以下「相続財産」という。)の有無、その状況等を認識し又は認識することができ、したがつて単純承認若しくは限定承認又は放棄のいずれかを選択すべき前提条件が具備されるとの考えに基づいているのであるから、熟慮期間は、原則として、相続人が前記の各事実を知つた時から起算すべきものであるが、相続人が、右各事実を知つた場合であつても、右各事実を知つた時から三か月以内に限定承認又は相続放棄をしなかつたのが、被相続人に相続財産が全く存在しないと信じたためであり、かつ、被相続人の生活歴、被相続人と相続人との間の交際状態その他諸般の状況からみて当該相続人に対し相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があつて、相続人において右のように信ずるについて相当な理由があると認められるときには、相続人が前記の各事実を知つた時から熟慮期間を起算すべきであるとすることは相当でないものというべきであり、熟慮期間は相続人が相続財産の全部又は一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべき時から起算すべきものと解するのが相当である。
これを本件についてみるに、原審が適法に確定した事実及び本件記録上明らかな事実は、次のとおりである。1 第一審被告亡大西増治郎(以下「亡増治郎」という。)は、昭和五二年七月二五日、上告人との間で、浅野さくの上告人に対する一〇〇〇万円の準消費貸借契約上の債務につき、本件連帯保証契約を締結した。
2 本件の第一審裁判所は、昭和五五年二月二二日、上告人が亡増治郎に対して本件連帯保証債務の履行を求める本訴請求を全部認容する旨の判決を言い渡したが、亡増治郎が右判決正本の送達前の同年三月五日に死亡したため、本件訴訟手続は中断した。そこで、上告代理人が同年七月二八日に受継の申立をしたが、第一審裁判所は、昭和五六年二月九日亡増治郎の相続人である被上告人らにつき本件訴訟手続の受継決定をしたうえ、被上告人大西収に対して同年二月一二日に、被上告人大西操子に対して同月一三日に、被上告人大西茂子に対して同年三月二日に、それぞれ右受継申立書及び受継決定正本とともに第一審判決正本を送達した。もつとも、被上告人大西茂子は、同年二月一四日に被上告人大西操子から右送達の事実を知らされていた。
3 ところで、亡増治郎の一家は、同人が定職に就かずにギヤンブルに熱中し家庭内のいさかいが絶えなかつたため、昭和四一年春に被上告人大西収が家出し、昭和四二年秋には亡増治郎の妻が被上告人大西操子、同大西茂子を連れて家出して、以後は被上告人らと亡増治郎との間に親子間の交渉が全く途絶え、約一〇年間も経過したのちに本件連帯保証契約が締結された。その後、亡増治郎は、生活保護を受けながら独身で生活していたが、本件訴訟が第一審に係属中の昭和五四年夏,医療扶助を受けて病院に入院し、昭和五五年三月五日病院で死亡した。被上告人大西収は、同人の死に立ち会い、また、被上告人大西操子、同大西茂子も右同日あるいはその翌日に亡増治郎の死亡を知らされた。しかし、被上告人大西収は、民生委員から亡増治郎の入院を知らされ、三回ほど亡増治郎を見舞つたが、
その際、同人からその資産や負債について説明を受けたことがなく、本件訴訟が係属していることも知らされないでいた。当時、亡増治郎には相続すべき積極財産が全くなく、亡増治郎の葬儀も行われず、遺骨は寺に預けられた事情にあり、被上告人らは、亡増治郎が本件連帯保証債務を負担していることを知らなかつたため、相続に関しなんらかの手続をとる必要があることなど全く念頭になかつた。ところが、被上告人らは、その後約一年を経過したのちに、前記のとおり、第一審判決正本の送達を受けて初めて本件連帯保証債務の存在を知つた。
4 そこで、被上告人らは、第一審判決に対して控訴の申立をする一方、昭和五六年二月二六日大阪家庭裁判所に相続放棄の申述をし、同年四月一七日同裁判所はこれを受理した。
右事実関係のもとにおいては、被上告人らは、亡増治郎の死亡の事実及びこれにより自己が相続人となつた事実を知つた当時、亡増治郎の相続財産が全く存在しないと信じ、そのために右各事実を知つた時から起算して三か月以内に限定承認又は相続放棄をしなかつたものであり、しかも被上告人らが本件第一審判決正本の送達を受けて本件連帯保証債務の存在を知るまでの間、これを認識することが著しく困難であつて、相続財産が全く存在しないと信ずるについて相当な理由があると認められるから、民法九一五条一項本文の熟慮期間は、被上告人らが本件連帯保証債務の存在を認識した昭和五六年二月一二日ないし同月一四日から起算されるものと解すべきであり、したがつて、被上告人らが同月二六日にした本件相続放棄の申述は熟慮期間内に適法にされたものであつて、これに基づく申述受理もまた適法なものというべきである。それゆえ、被上告人らは、本件連帯保証債務を承継していないことに帰するから、上告人の本訴請求は理由がないといわなければならない。
そうすると、原審が、民法九一五条一項の規定に基づき自己のために相続の開始があつたことを知つたというためには、相続すべき積極又は消極財産の全部あるいは一部の存在を認識することを要すると判断した点には、法令の解釈を誤つた違法があるものというべきであるが、被上告人らの本件相続放棄の申述が熟慮期間内に適法にされたものであるとして上告人の本訴請求を棄却したのは、結論において正当であり、論旨は、結局、原判決の結論に影響を及ぼさない部分を論難するものであつて、採用することができない。よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官宮崎梧一の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
「以上の認定事実によれば、抗告人は、被相続人が死亡した時点で、その死亡の事実及び抗告人が被相続人の相続人であることを知ったが、被相続人の本件遺言があるため、自らは被相続人の積極及び消極の財産を全く承継することがないと信じたものであるところ、本件遺言の内容、本件遺言執行者である株式会社大和銀行の抗告人らに対する報告内容等に照らし、抗告人がこのように信じたことについては相当な理由があったものというべきである。
ところで、民法九一五条一項本文が相続人に対し単純承認若しくは限定承認又は放棄をするについて三か月の熟慮期間を許与しているのは、相続人が相続開始の原因たる事実及びこれにより自己が法律上相続人となった事実を知った場合には、通常その各事実を知った時から三か月以内に調査すること等によって、相続すべき積極及び消極の財産の有無、その状況等を認識し又は認識することができ、したがって単純承認若しくは限定承認又は放棄のいずれかを選択すべき前提条件が具備されるとの考えに基づいている(最高裁昭和五九年四月二七日第二小法廷判決・民集三八巻六号六九八頁)。ところが、抗告人は、自らは被相続人の積極及び消極の財産を全く承継することがないと信じ、かつ、このように信じたことについては相当な理由があったのであるから、抗告人において被相続人の相続開始後所定の熟慮期間内に単純承認若しくは限定承認又は放棄のいずれかを選択することはおよそ期待できなかったものであり、被相続人死亡の事実を知ったことによっては、未だ自己のために相続があったことを知ったものとはいえないというべきである。そうすると、抗告人が相続開始時において本件債務等の相続財産が存在することを知っていたとしても、抗告人のした本件申述をもって直ちに同熟慮期間を経過した不適法なものとすることは相当でないといわざるを得ない。なお、抗告人は、後に、相続財産の一部の物件について遺産分割協議書を作成しているが、これは、本件遺言において当然に一郎へ相続させることとすべき不動産の表示が脱落していたため、本件遺言の趣旨に沿ってこれを一郎に相続させるためにしたものであり、抗告人において自らが相続し得ることを前提に、一郎に相続させる趣旨で遺産分割協議書の作成をしたものではないと認められるから、これをもって単純承認をしたものとみなすことは相当でない。
そして、抗告人は、平成一二年六月一七日に至って住宅金融公庫から催告書の送付を受けて初めて、本件債務を相続すべき立場にあることを知ったものであり、上記認定の経過に照らすと、それ以前にそのことを知らなかったことについては相当な理由があるものというべきであるから、同日から所定の熟慮期間内にされた本件申述は適法なものである。
4 よって、本件申述を熟慮期間を経過した不適法なものであるとして却下した原審判は不当であり、本件抗告は理由があるから、家事審判規則一九条一項により原審判を取消し、本件申述の受理手続のため、本件を原裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり決定する。」