新銀座法律事務所 法律相談事例集データベース
No.933、2009/11/20 13:42 https://www.shinginza.com/qa-roudou.htm

【労働・会社内留学制度による資格取得と退職・留学費用返還と労働基準法16条損害賠償の予定の禁止】

質問:私は,会社の留学制度を使って,2年間アメリカの大学院に留学し,経営学博士の学位を取得しました。留学の際の費用は,留学の終了後一定期間勤務を続ければ返還は免除されますが,期間内に退職した場合には費用の返還が義務付けられます。帰国後,2年半ほど勤務してから会社を退職しようとしたところ,会社から留学費用の返還を求められています。私は留学費用を会社に返還しなければならないでしょうか。

回答:
あなたの留学が実質的に業務の一貫として行われたものであれば会社に対し留学費用の返還をする必要はありません。このような場合には,本来労働者は費用を負担する必要はなく,会社が退職労働者に対し費用の返還を請求することは,会社から労働者への損害賠償の予定を禁止した労働基準法16条に違反することとなります。留学の業務性の判断については以下の解説を参考にして下さい。

解説:
1.労働基準法16条
労働基準法16条は,「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」との規定です。この規定の趣旨は,使用者が労働者よりも優越的な立場にあることに乗じて,契約期間の途中で退職する労働者に対して違約金や損害賠償を課す旨を定めて,労働者の足止めをはかることを防止する点にあります。本条の趣旨からすれば,期間満了前の足止めにとどまらず,期間の定めのない労働契約において,一定期間内に退職した労働者に不利益を課す旨の約定についても,本条違反が成立するといえます。以前勤めていた会社の,「留学の際の費用は,留学の終了後一定期間勤務を続ければ返還は免除されますが,期間内に退職した場合には費用の返還が義務付けられます」との約定については,この約定が実質的には損害賠償の予定にあたらないかが問題となります。

2.留学費用の返還債務は,貸金返還債務か,それとも損害賠償債務か
留学費用の返還債務を巡る法律関係をどう解釈するかについては,形式的には2種類の解釈が考えられます。1つめの解釈は,労働者が一定期間内に退職した場合に,一旦与えられた留学費用等の返還義務があらためて発生するとの解釈です。この解釈によれば,留学費用の返還債務は損害賠償債務にあたります。この解釈によれば,留学費用の返還についての会社の約定は,同法16条に違反することとなります。2つめの解釈は,使用者による留学費用等の支出は金銭消費貸借契約に基づくもので,一定期間勤続した場合に貸金返還債務が免除されるという特約が付されているとみる解釈です。労働基準法は,使用者と労働者の間の金銭消費貸借契約を禁止するものではありません。この解釈によれば,会社の約定は,労働者の貸金返還債務を免除するという労働者にとって有利な特約を付しているにすぎないので,同法16条には違反しないといえるでしょう。

3.留学の業務性
ご質問いただいた会社の約定は,期間内に退職しようとする労働者に不利益を課すことで退職を抑制する効果を持つことから,労働基準法16条に違反となりえます。他方,会社の側にも労働者に投じた費用の回収を図るために,労働者に勤続のインセンティブを与える措置をとること自体の合理性も否定できません。そこで,類似事例での裁判例は,留学が業務といえるかについて判断をし,労働者の留学が業務の一貫として行われたといえるような場合には,当該留学費用の返還債務は実質的には損害賠償債務にあたり,当該約定は同法16条に違反するとの判断をしています。

留学の業務性を判断するにあたっては,下記の諸要素を勘案して決することとなります。@取得する学位等の職務との関連性
A転職の際の一般的通用性
B留学の実施・内容についての使用者の関与の程度
上記の諸要素をいかに判断するかですが,例えば,留学への応募及び留学先の選択が比較的広汎に労働者に委ねられているような場合や,労働者にとって転職時にも有用な学位を取得している場合は,留学の業務性を否定する方向に傾きます。他方,会社の約定に,会社業務に関連する留学先を選択すべきことが定められていて労働者が実質的にもその範囲内で留学先を決定し,帰国後も留学で習得した技能を生かした職務に従事したような場合には,留学の業務性は認められやすくなるといえます。

以下,留学の業務性を否定した裁判例と,肯定した裁判例の業務性判断に関する判旨部分を参考に引用します。
<留学の業務性を否定した裁判例,東京地判平成9.5.26>
「本件留学制度は原告の人材育成施策の一つではあるが、その目的は前記認定のとおり、大所高所から人材を育成しようというものであって、留学生への応募は社員の自由意思によるもので業務命令に基づくものではなく、留学先大学院や学部の選択も本人の自由意思に任せられており、留学経験や留学先大学院での学位取得は、留学社員の担当業務に直接役立つというわけではない一方、被告ら留学社員にとっては原告で勤務を継続するか否かにかかわらず、有益な経験、資格となる。従って、本件留学制度による留学を業務と見ることはできず、その留学費用を原告が負担するか被告が負担するかについては、労働契約とは別に、当事者間の契約によって定めることができるものというべきである。」

<留学の業務性を肯定した裁判例,東京地判10.9.25>
「原告は、海外留学を職場外研修の一つに位置付けており、留学の応募自体は従業員の自発的な意思にゆだねているものの、いったん留学が決定されれば、海外に留学派遣を命じ、専攻学科も原告の業務に関連のある学科を専攻するよう定め、留学期間中の待遇についても勤務している場合に準じて定めているのであるから、原告は、従業員に対し、業務命令として海外に留学派遣を命じるものであって、海外留学後の原告への勤務を確保するため、留学終了後五年以内に自己都合により退職したときは原則として留学に要した費用を全額返還させる旨の規定を本件留学規程において定めたものと解するのが相当である。留学した従業員は、留学により一定の資格、知識を取得し、これによって利益を受けることになるが、そのことによって本件留学規程に基づく留学の業務性を否定できるわけではなく、右判断を左右するに足りない。」

4.最後に
会社の約定が労働基準法16条に違反しないかについては,留学の業務性の有無が結論に決定的な影響を与えていますが,このほかにも,返還免除基準の合理性や返還額の相当性も考慮されます。本件の会社の約定のように,返還免除基準として「留学の終了後一定期間勤務」のように,不明確な基準を定めると違法と判断されやすくなります。また,過度に長期間の勤続が定められている場合も違法と判断されやすくなります。返還額としては,返還請求額が労働者の賃金と比較して過度に高額であってはならず,また,労働者が帰国後一定期間勤続している場合には勤続期間に応じて返還額を減額することが必要となります。

<参照法令>

労働基準法
(賠償予定の禁止)
第16条
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。

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