労働契約法
第3条(労働契約の原則)
1 労働契約は、労働者及び使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、又は変更すべきものとする。
2 労働契約は、労働者及び使用者が、就業の実態に応じて、均衡を考慮しつつ締結し、又は変更すべきものとする。
3 労働契約は、労働者及び使用者が仕事と生活の調和にも配慮しつつ締結し、又は変更すべきものとする。
4 労働者及び使用者は、労働契約を遵守するとともに、信義に従い誠実に、権利を行使し、及び義務を履行しなければならない。
5 労働者及び使用者は、労働契約に基づく権利の行使に当たっては、それを濫用することがあってはならない。
第6条(労働契約の成立)
労働契約は、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払うことについて、労働者及び使用者が合意することによって成立する。
《参考判例》
1 転勤命令が使用者の権利の濫用に当たるか否かについて、業務上の必要性が低いとして権利濫用に当たるとした控訴審の判決を破棄し、転勤命令が権利濫用には当たらないとした最高裁判所の判例を紹介します(最高裁昭和61年7月14日判決)。
上告代理人門間進、同角源三の上告理由について
一 原審が認定したところによれば、被上告人に対する本件懲戒解雇に関する事実関係の概要は、次のとおりである。
1 上告会社は、大阪に本店及び事務所を、東京に支店を、大阪外二か所に工場を、全国一三か所に営業所を置き、従業員約八〇〇名を擁して、塗料及び化成品の製造・販売を行つている。上告会社とその従業員組合との間の労働協約二九条は「会社は、業務の都合により組合員に転勤、配置転換を命ずることができる。」と定め、また、上告会社の就業規則一三条は「業務上の都合により社員に異動を命ずることがある。この場合には正当な理由なしに拒むことは出来ない。」と定めている。上告会社では、従業員、特に営業担当者の出向、転勤等が頻繁に行われており、大阪、東京から地方の営業所に転勤し、二、三年後にまた大阪、東京に戻るというような人事異動もしばしば行われている。
2 被上告人は、昭和四〇年三月関西学院大学経済学部を卒業し、同年四月上告会社に入社すると同時に大阪事務所の第一営業部に配属されたが、被上告人と上告会社との間で労働契約成立時に被上告人の勤務地を大阪に限定する旨の合意はなされなかつた。被上告人は、大学卒業の資格で上告会社に入社し、入社当初から営業を担当していた者で、業務上の必要に基づき将来転勤のあることが当然に予定されていた。そして、被上告人は、昭和四四年四月に株式会社ヤマイチ商店大阪営業所へ出向となり、昭和四六年七月出向を解かれて上告会社の神戸営業所勤務となり、昭和四八年四月主任待遇となつたが、その間、塗料の販売活動に従事していた。
3 上告会社では、広島営業所の段主任を中国地方及び四国の瀬戸内沿岸地方における家庭塗料販売の専従員とすることとしたことから、その後任として、広島営業所の塗料販売力を増強することができ、かつ、所長の補佐もできる係長、主任、主任代理クラスの者を広島営業所へ転勤させることが必要となり、昭和四八年九月二八日、当時神戸営業所に勤務していた主任待遇の被上告人に対し広島営業所への転勤を内示した。しかし、被上告人は、家庭事情を理由に転居を伴う転勤には応じられないとして、右転勤を拒否した。上告会社は、被上告人があくまで右転勤を拒否する場合には、広島営業所の段主任の後任には名古屋営業所の金永主任を充て、金永主任の後任として被上告人を名古屋営業所へ転勤させることとし、同年一〇月一日、被上告人に対し広島営業所へ転勤するよう再度説得したが、被上告人がこれに応じなかつたため、その場で名古屋営業所への転勤を内示したところ、被上告人は、家庭事情を理由に、これも拒否した。上告会社は、同月八日に五〇名の定期異動を発令したが、被上告人に対する転勤発令は延ばして名古屋営業所への転勤の説得を重ねた。しかしながら、被上告人がこれに応じなかつたため、上告会社は、被上告人の同意が得られないまま、同月三〇日、被上告人に対し、名古屋営業所勤務を命ずる旨の本件転勤命令を発令したところ、被上告人は、これに応じず、名古屋営業所へ赴任しなかつた。そこで、上告会社は、やむなく、同年一二月一八日、被上告人に代えて大阪営業所勤務で昭和四五年入社の宮本昌敏を名古屋営業所金永主任の後任として転勤させた。そして、上告会社は、被上告人が本件転勤命令を拒否したことは就業規則六八条六号所定の懲戒事由たる「職務上の指示命令に不当に反抗し又は職場の秩序を紊したり、若しくは紊そうとしたとき」に該当するとして、昭和四九年一月二二日、被上告人に対し本件懲戒解雇を行つた。
4 上告会社においては、名古屋営業所の金永主任の後任者として適当な者を名古屋営業所へ転勤させる必要があつたが、是非とも被上告人でなければならないという事情はなく、名古屋営業所において被上告人の代わりに宮本昌敏を転勤させたための支障は生じなかつた。
5 被上告人は、本件転勤命令が発令された当時、母親(七一歳)、妻(二八歳)及び長女(二歳)と共に堺市内の母親名義の家屋に居住し、母親を扶養していた。母親は、元気で、食事の用意や買物もできたが、生まれてから大阪を離れたことがなく、長年続けて来た俳句を趣味とし、老人仲間で月二、三回句会を開いていた。妻は、昭和四八年八月三〇日に東洋紡績株式会社を退職し、同年九月一日から無認可の保育所に保母として勤め始めるとともに、右保育所の運営委員となつた。右保育所は、当時、保母三名、パートタイマー二名の陣容で発足したばかりで、全員が正式な保母の資格は有しておらず、妻も保母資格取得のための勉強をしていた。
二 原審は、右の事実関係に基づき、次のとおり判断した。
本件転勤命令が上告会社の業務上の必要性に基づくものであることは肯認されるべきであるが、右の必要性はそれほど強いものではなく、他の従業員を名古屋営業所へ転勤させることも可能であつたのに対し、被上告人が名古屋営業所へ転勤した場合には、母親、妻及び長女との別居を余儀なくされ、相当の犠牲を強いられることになること、また、被上告人は、昭和四〇年四月に上告会社に入社して以来、株式会社ヤマイチ商店に出向したほか、神戸営業所へ転勤し、神戸営業所勤務となつてから本件転勤命令が出されるまでに二年四か月しか経過していないこと等に照らすと、被上告人には名古屋営業所への転勤を拒否する正当な理由があつたものと認めるのが相当である。したがつて、被上告人が拒否しているにもかかわらず、あえて発せられた本件転勤命令は、権利の濫用に当たり、無効であり、被上告人が本件転勤命令に従わなかつたことを理由になされた本件懲戒解雇も、無効である。
三 思うに、上告会社の労働協約及び就業規則には、上告会社は業務上の都合により従業員に転勤を命ずることができる旨の定めがあり、現に上告会社では、全国に十数か所の営業所等を置き、その間において従業員、特に営業担当者の転勤を頻繁に行つており、被上告人は大学卒業資格の営業担当者として上告会社に入社したもので、両者の間で労働契約が成立した際にも勤務地を大阪に限定する旨の合意はなされなかつたという前記事情の下においては、上告会社は個別的同意なしに被上告人の勤務場所を決定し、これに転勤を命じて労務の提供を求める権限を有するものというべきである。
そして、使用者は業務上の必要に応じ、その裁量により労働者の勤務場所を決定することができるものというべきであるが、転勤、特に転居を伴う転勤は、一般に、労働者の生活関係に少なからぬ影響を与えずにはおかないから、使用者の転勤命令権は無制約に行使することができるものではなく、これを濫用することの許されないことはいうまでもないところ、当該転勤命令につき業務上の必要性が存しない場合又は業務上の必要性が存する場合であつても、当該転勤命令が他の不当な動機・目的をもつてなされたものであるとき若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき等、特段の事情の存する場合でない限りは、当該転勤命令は権利の濫用になるものではないというべきである。右の業務上の必要性についても、当該転勤先への異動が余人をもつては容易に替え難いといつた高度の必要性に限定することは相当でなく、労働力の適正配置、業務の能率増進、労働者の能力開発、勤務意欲の高揚、業務運営の円滑化など企業の合理的運営に寄与する点が認められる限りは、業務上の必要性の存在を肯定すべきである。
本件についてこれをみるに、名古屋営業所の金永主任の後任者として適当な者を名古屋営業所へ転勤させる必要があつたのであるから、主任待遇で営業に従事していた被上告人を選び名古屋営業所勤務を命じた本件転勤命令には業務上の必要性が優に存したものということができる。そして、前記の被上告人の家族状況に照らすと、名古屋営業所への転勤が被上告人に与える家庭生活上の不利益は、転勤に伴い通常甘受すべき程度のものというべきである。したがつて、原審の認定した前記事実関係の下においては、本件転勤命令は権利の濫用に当たらないと解するのが相当である。
四 以上の次第であるから、原審がその認定した事実関係のみから本件転勤命令を無効とした判断には、法令の解釈適用を誤つた違法があるといわなければならず、右違法が原判決中上告会社敗訴部分の結論に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は右の点で理由があり、その余の点について判断するまでもなく、原判決中右部分は破棄を免れない。
そして、被上告人の主張する本件転勤命令のその余の無効事由について更に審理を尽くさせる必要があるから、右部分につき本件を原審に差し戻すこととし、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
2 第1審の転勤命令が権利濫用に当たるとした判決を認めて控訴を棄却した高裁の判決を紹介します(大阪高裁平成18年4月14日判決)。
1 判断の大要
当裁判所も,控訴人の当審補充主張を勘案しても,原判決と同様に,本件配転命令は被控訴人らに通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるもので,配転命令権の濫用にあたり,無効であって,被控訴人らは霞ヶ浦工場に勤務する雇用契約上の義務はなく,また,被控訴人らの賃金支払請求は原判決の認容した限度で理由があると判断する。その理由は,当審における当事者の補充主張等にかんがみ,以下のとおり補正するほかは,原判決が「第3 当裁判所の判断」として説示するとおりであるから,これを引用する。
2 原判決理由の補正
なお,原判決中,本判決で使用した略語によっていない部分について,引用するに当たって特に訂正はしない。
(1) 原判決23頁下から2行目から同24頁4行目までを次のように改める。
「(2) そこで,検討するに,証拠(〈証拠略〉,証人A,同B及び同Cの各証言,被控訴人X1及び被控訴人X2の各本人尋問の結果)及び弁論の全趣旨によれば,次のとおり,認定判断される。」
(2) 原判決26頁7行目の「原告らの加入するネッスル日本労働組合」を「被控訴人X1が加入しており,また本件配転命令後の平成15年5月12日に被控訴人X2がネスレ労組を脱退して加入したネッスル労組」と改める。
(3) 同頁下から7行目の「弁護士による相談会」の前に,「前記のように本件配転命令の効力を争うネッスル労組主催の」を付加する。
(4) 原判決30頁15行目から18行目にかけての「平成15年2月5日,d町から要介護2の認定を受け,痴呆が進んでおり,昼夜逆転の症状があるため,夜中に徘徊することがあり,電気をつけたり水道の蛇口をひねったりすることがある。また,腰が弱く体が動かなくなることがある。」を,次のように改める。
「Fは,平成15年2月5日,d町から要介護2の認定を受けたが,本件配転命令当時,痴呆が進んでいて,昼夜逆転の症状があり,夜に眠れずに部屋で活動することがあり,また,屋内で部屋を移動することがあったほか,頻度は多くないが,屋外に出ようとすることもあった。また,夜間でも2時間おきにトイレに行くところ,排泄自体は自分でできるが,衣類の着脱は一部介助が必要で,時に便所を汚すことがあった。トイレの場所を忘れてうろうろすることもあった。」
(5) 同頁下から1行目から31頁6行目までを次のように改める。
「 夜間の介護のみをヘルパーの夜間派遣等で補うことは制度上困難である上,特別養護老人ホームへの入所は,Fの要介護度に照らし困難である。また,介護老人保健施設又は介護療養型医療施設を利用することも,まず定員に空きがあるかが問題になるほか,入所できてもずっと継続して入所していられるわけではない。ショートステイも月間の利用日数は限定され,いずれの場合にも自宅で療養するのと比較すれば相当の金銭的負担が必要となる。」
(6) 当事者の当審における補充主張及び立証にかんがみ,原判決32頁4行目の次に行を変えて次のとおり付加し,同5行目冒頭の「(3)」を「(4)」に改める。
「(3) 前記認定のうち,被控訴人X2のFに対する介護の有無について,控訴人は前記の認定内容を争うので,以下判断の理由を示す。
ア 控訴人は,本件配転命令当時,Fには徘徊癖はなかった旨主張する。
確かに,本件配転命令に先立つ平成15年1月9日申請の介護保険要介護認定申請書(〈証拠略〉)関係の書類中,認定調査票(特記事項)には,徘徊があるとの記載はなく,問題行動として記載されているのは,「夜間に起きて眠らないことがある。部屋でゴソゴソするだけなので,特に支障はない。」との記載があるだけである。この記載について,Gは陳述書(〈証拠略〉)において,仏間のマッチに火をつける危険はなくなったことと,夫が義母を見守っていてくれたから大丈夫だという意味だと述べているが,やや不自然な内容で,それだけでは,にわかに信用できない。
更に,主治医の意見書等にも徘徊についての記載はない。
しかしながら,同様に本件配転命令発令前の平成15年3月13日にc苑の職員のJ某が面接して作成したc苑利用者調書(〈証拠略〉)には,問題行動として「離苑行為」にチェックがしてあり「ショート利用中注意必要」との記載があるほか,特記事項としても「夜間寝られず,ごそごそされ,たまに一人で出かけようとする。」との記載がある。これは,Fに対する介護計画を立てるに当たって,注意すべき事項を介護を担当してきたGから聴き取って作成されたものと解され,殊更に虚偽の事実を記載すべき理由もないから,少なくとも,この時点でFには夜間にごそごそした上,たまには一人で屋外に出ることがあり,徘徊が心配されたものと認めることができる。
イ また,徘徊癖の有無とは別に,控訴人は,Fの介護は基本的にはGがしており,たまに被控訴人X2の姉が介護を代わってすることがあったが,被控訴人X2自身が介護を分担していた事実はない旨主張する。
確かに,前記の要介護認定申請関係の各書類において,被控訴人X2自身が何らかの介護をしていたと認めるべき記載は特にない。
しかし,前記の介護保険要介護認定申請書(〈証拠略〉)及びc苑利用者調書(〈証拠略〉)によれば,Fは,昼夜共に2時間ごとにトイレに行くというのであるところ,排泄自体は自力でも可能で,基本的には自分でトイレに行くが,衣服の着脱は一部介護が必要であり,また,月に1,2回ではあるがトイレの場所自体も分からなくなることがあるというのであるから,そのような場合に対処するために夜間でもFがトイレに行く場合には付添をする必要があったと考えられる。そして,昼間ずっとGが介護しているのであるから,夜間については被控訴人X2が付添等をすること自体はごく自然なことであり,夜間に限られることなどから特に事細かに申告していないとしても不自然ではない。その旨をいう被控訴人X2の陳述書(〈証拠略〉),Gの陳述書(〈証拠略〉)は信用し得る。」
(7) 原判決32頁下から7行(ママ)の次に行を変えて次のとおり付加する。
「被控訴人らは,業務上の必要性があるか否かは,配転の対象となる労働者の受ける不利益との相関関係において判断されるべきであり,本件配転命令によって被控訴人らのように同居している家族に対する援助又は介護が困難になるという重大な損害の場合には,業務上の必要性は高度のものであることを要すると主張する。しかし,使用者は業務上の必要に応じその裁量により労働者の勤務場所を決定する権限があり,勤務場所を限定する合意がない場合においては,配転を命ずることはその権限の範囲内に属するというべきである。そして,当該配転命令が企業の合理的運営に寄与する点が認められる限りは業務上の必要性が肯定されるべきである。したがって,被控訴人らの主張は採用できない。」
(8) 当事者の当審における補充主張及び立証にかんがみ,原判決33頁5行目から35頁下から2行目までを次のように改める。
「イ そこで,本件配転命令によって被控訴人らが被る不利益について具体的に検討する。まず,被控訴人X1については次のとおりである。
(ア) 被控訴人X1の妻Eは,本件配転命令当時,非定型精神病に罹患していたところ,非定型精神病は,医学事典(〈証拠略〉)によれば,発病は急激であるが,予後は比較的良好とされる病気で,精神障害者がその障害を克服して社会復帰をし,自立と社会経済活動への参加をしようとする努力に対し,協力することは国民の義務とされる(精神保健及び精神障害者福祉に関する法律3条)ことをも考慮すれば,配偶者たる被控訴人X1は,Eを肉体的,精神的に支え,病状の改善のために努力すべき義務を当然負っていたというべきである。Eと被控訴人X1の母との関係は必ずしも良好ではなかったから,同人はEに対する十分な援助者とはなり得なかったし,長女や二女はその年齢を考えれば,同様に十分な援助者とはなり得なかったことは明らかである。また,Eの実家は,乙第45号証によれば被控訴人X1方から約4.3kmの距離に存在し,それまでにもEが実家に戻ることもあったことからすれば,Eが実家に戻っている間に,Eに対して自立に向けての努力の援助をすることは可能であったと考えられるが,Eと被控訴人X1が離婚するのではなく,これからも家族として生活していくことを前提とする場合には,実家の家族の行い得る援助は限定的なものにならざるを得ないことが明らかである。
(イ) 控訴人は,本件配転命令当時及びその直後頃に,被控訴人X1とEの関係はかなり悪く,平成15年7月に医師がEに対して被控訴人X1の言動による症状の悪化を恐れて実家に戻るよう指示する状態であったことからすれば,被控訴人X1による援助は当時全く考えられない状態であったと主張する。確かに,被控訴人X1がEの病気の内容について十分理解しておらず,立て続けに起こった長男の死亡や本件配転命令のこともあって,気持ちに余裕がなくEに辛くあたり,これがEの症状を悪化させた面も否定できないと考えられるが,そのことから,被控訴人X1とEが離婚を真剣に考慮したというような事実までは認められない。Eのカルテ(〈証拠略〉)には,Eの発言として,「夫の許へ帰りたくない」(平成15年7月12日付)などの記載もあるが,これは一時的にそのように考えたというのにとどまることは,それ以後の状況から明らかである。そうすると,Eとしても病状が回復した場合には被控訴人X1のもとに戻ることを考えていたものと考えられ,そのことが自立に向けた努力の励みとなるものと考えられる。
(ウ) 被控訴人X1が本件配転命令によって霞ヶ浦工場に転勤することになった場合には,単身赴任か家族を伴っての転居となるところ,被控訴人X1が単身赴任した場合には,Eは,被控訴人X1と共に生活するという回復のための目標を失うことになるし,また,被控訴人X1が行っていた家事分担について,自ら行わなければならないのではと考えることになり,このような心配がEの精神的安定に影響を及ぼす虞はかなり大きいものと考えられる。
(エ) また,被控訴人X1が家族帯同で転居する場合については,長女及び二女は転居自体に拒否的で受験等も控えていたから同行したか否かは不明であるから,Eの同行のみが問題になるが,転居して全く知らない土地に住むことはEの不安感を増大させ,病気が悪化する可能性が強く,また,現在a病院の主治医であるC医師との間で形成されている信頼関係が消滅し,また一から信頼関係を築く必要があり,これも症状悪化に結びつく可能性があり,ひいては家庭崩壊につながることも考えられる。
(オ) したがって,本件配転命令が被控訴人X1に与える不利益は非常に大きいものであったと評価できる。
(カ) 控訴人は,被控訴人X1が控訴人の設けている介護休業や時間短縮等の便宜措置を利用していなかったことや,泊まりがけのスキーや忘年会などに参加していたことを挙げて,被控訴人X1は自らEの介護等を行っておらず,転勤を拒否するための名目として主張しているのに過ぎないと主張する。前記認定判断のとおり,被控訴人X1は,Eの病状に対する理解が十分ではなく,本件配転命令後は,これに起因する悩み等も伴ってEに辛くあたり,Eが実家に一時的に戻る事態になったことはあったが,その間も家事を分担することにより,Eの負担の軽減という形で援助し,かつ,戻るべき家の存在という形で,Eの回復への努力目標を提供していたのであって,Eに対する援助がなかったと評価すべきではない。したがって,全く援助していなかったのに,裁判のために殊更援助をするような外観を作出したとの控訴人の主張は失当である。また,被控訴人X1の援助が家事の分担と精神的な援助であった以上,便宜措置を利用しなかったことや泊まりがけの旅行に参加したことは,その援助をしていたとの認定の妨げとなるものではない。
ウ 次に被控訴人X2の不利益について判断する。
(ア) 先に原判決を引用して説示したように,本件配転命令当時Fが頻繁に外出し徘徊していたとまでは認められないが,夜間に部屋でゴソゴソするだけでなく,家から出ようとすることもあり,またトイレに行く場合に介助が必要になることもあったため,被控訴人X2は夜間のFの監視や介助及び何かあった場合の援助等をしていた。
(イ) このうち,夜間の介護については,ショートステイの方法により,若干介護の負担を逃れることができると認められる。被控訴人らは,Fが初めてショートステイをしたときに,Fが寂しがって夜半に親戚に電話をかけたことから,その後ショートステイを利用せず,Fについて週2回程度デイサービスを利用しているにとどまっている。介護保険実務からいえば,より長時間の利用も不可能ではない。
しかし,要介護者の介護を親族が行うことは介護施設で行うサービスとは違って,要介護者及び介護担当者にも,主として精神的な面であるが,それなりのメリットがあり,また介護保険による介護を利用する場合には一定程度の利用者負担が必要であるから,配転命令のもたらす不利益の程度の判断において,要介護者が常に最大限介護保険等による公的サービスを受けていることを前提として判断すべきものとはいえない。
(ウ) また,被控訴人X2の子供については,その年齢からしてもFの介護の担当者として考慮するのは尚早である。被控訴人X2の姉は週に1回から月に1回くらいの割合でFを自宅に引き取って介護を負担していることが認められ,これを大幅に増やすことは他に家庭を持つ実姉にとって困難であると推認される。
(エ) そうすると,被控訴人X2が本件配転命令による転勤として単身赴任した場合には,被控訴人X2が主として行っていた夜間のFの行動の見守りや介助及び援助は,Gが行わざるを得なくなることになる。Fの行動の見守りや介助は,昼間も常時必要であるためGが担当しているから,被控訴人X2が単身赴任した場合には一日中見守り行為及び各種の補助をしなければならないことになり,実際上不可能である。これについては,ある程度は介護保険によるサービスで賄うことが可能と解されるが十分とは考えられない上,その場合には相当額の費用負担も必要となる。
(オ) 他方,Fが老齢であって,新たな土地で新たな生活に慣れることは一般的に難しいことを考慮すると,被控訴人X2と同行して転居することは,かなり困難であったことは明らかである。」
(9) 原判決36頁12行目末尾に続いて,次のとおり付加する。
「被控訴人らは,Eに対する被控訴人X1の支援の内容に照らし,同人の場合も改正育児介護休業法26条の配慮すべき場合に当たる旨主張するが,同法の定義規定に照らし採用し難い。」
(10) 当審における控訴人の補充主張にかんがみ,原判決38頁11行目末尾に続いて次のとおり付加する。
「控訴人は,このような判断は,企業内の実情を知らず,経営に責任を持たない裁判所が判断すること自体失当であると主張するが,少なくとも改正育児介護休業法26条の配慮の関係では,本件配転命令による被控訴人らの不利益を軽減するために採り得る代替策の検討として,工場内配転の可能性を探るのは当然のことである。裁判所が企業内の実情を知らないというのであれば,控訴人は,具体的な資料を示して,工場内では配転の余地がないことあるいは他の従業員に対して希望退職を募集した場合にどのような不都合があるのかを具体的に主張立証すべきであるのに,抽象的に人員が余剰であると述べるだけで済ませ,経営権への干渉であるかのようにいうことの方が失当というべきで,前記の判断を左右するに足りない。」
(11) 当審における補充主張にかんがみ,原判決39頁2行目から40頁3行目までを次のように補正する。
「 控訴人は,控訴人が本件配転命令後に個人面談を実施したのにかかわらず,この中で被控訴人らが具体的に配転によって生じる不利益について具体的な資料をつけて主張することをせず,一方的に書面を送りつけただけである以上,後から裁判において不利益があるとの主張をすること自体信義則上許されないなどと主張する。
しかしながら,控訴人は本件配転命令において事前に対象となる従業員の個別事情について確認調査することなく,一律に配転を命じた上で事後的に事情聴取をするという方法を取ったもので,その際に,転勤が困難である事情についての申告期限を特に決めて通知したわけでもないのであって,人事異動が緊急を要するにしても,控訴人自身において,異動の期限を平成15年6月23日と定め,また異動ができない場合には同年5月23日までに申し出るように表明しているのであるから,その申出期限内に書面でなされた被控訴人らの転勤困難の申出や具体的な事情の主張が信義則に反すると解すべき理由はない。
確かに,個別面談は,その行われた時期からいって,転勤を困難とする事情について従業員側から聴取するためのものであったと考えられるが,転勤を困難にする事情は人によって異なり,一義的に判断できる資料があるわけではないから,個人面談において申し出がなされても引き続き調査が必要になることも多いと考えられ,申出や資料提出が個人面談後になされたとしても,それだけで手続全体が大きく遅延するというものでもないと考えられる。
また,判断の対象となるのが個人の家庭内の事情であって,使用者側の調査が困難であり,裏付けとなる資料の提出も必要であるとしても,どのような裏付けが必要かは千差万別であるから,個別の事案において,使用者側でこのような点を裏付ける資料を提出するように求めたにもかかわらず,相当期間内に労働者側がその資料を提出しないというような場合に初めて信義則が問題になると考えられる。
しかるに,B課長の陳述書(〈証拠略〉)及びB証人の証言によっても,被控訴人X1及び被控訴人X2はそれぞれ妻が病気であること,母親が年配であることを述べ,転勤が困難であると悩んでいることを窺わせる事情を述べているにもかかわらず,B課長の方は具体的な事情を聴取し裏付けを求めるようなこともしていないのである。それにもかかわらず,被控訴人らが同面談で積極的に申出や資料提出をしなかったとして,その後文書で,被控訴人X1において,妻が非定型精神病であり,母が高齢であること等を理由に転勤が困難であるとの趣旨で姫路工場にとどまりたいと申し入れ,被控訴人X2において,母親が要介護2と認定されており妻による介護が必要であること,見知らぬ土地へ行けば症状が悪化すること等を告げて,配転命令について再考を求めているのに,それを信義則に反するとして無視するのは明らかに不当である。控訴人の主張は採用できない。」
(12) 当審での控訴人の補充主張にかんがみ,原判決40頁10行目の「金銭的な援助」の後に「や,それらの経済的支援の活用によってできる範囲での埋め合わせ」を付加する。
(13) 同頁末行の文末に次のとおり付加する。
「控訴人はこの点の判断を非難するが,仮に転勤者の中に被控訴人らより大きな不利益を受ける者がいたとしても,それによって,直ちに,そのような大きな不利益が通常甘受すべきものとなるわけでもないし,被控訴人らにおいて自らの著しい不利益を甘受しなければならないものでもないから,この点も結論を左右し得るものではない。」
3 したがって,本件配転命令は被控訴人らに通常甘受すべき程度を著しく越(ママ)える不利益を負わせるもので,配転命令権の濫用にあたり,無効であって,被控訴人らは霞ヶ浦工場に勤務する雇用契約上の義務はなく,また,被控訴人らの賃金支払請求は原判決の認容した限度で理由がある。よって,これと同旨の原判決は相当であって,本件控訴は棄却すべきであるから,主文のとおり判決する。
以上