退職届の撤回の可否|辞職と合意解約のいずれか
退職届を撤回する方法、辞職と合意解約のいずれと解釈されるか|最高裁昭和62年9月18日判決
目次
質問
私は、とある会社に勤めているのですが、仕事量が余りに多く、残業が重なり、精神的なストレスを抱え、うつ状態となってしまったため、休職を経て、先日、直属の上司である営業部長に対し、退職届を提出してしまいました。
退職届を提出した後に、その旨を伝えた妻からは、「幼い子どもが3人いて、自宅の住宅ローンも未だ大半が残っているのに、今後どうするつもりなんだ、もし退職するのであれば、あなたとは一緒に暮らしていけない」などと言われてしまいました。私も冷静になって考えて、再就職が上手くできるかも分からないのに、早まったことをしてしまったと心底後悔しています。
私は、今から、退職届の撤回をすることができるのでしょうか。退職届を提出して以後、会社からの連絡は未だ何もありません。
回答
1 退職届の提出については、①辞職の通知(民法627条)と②合意解約の申入れの2種類がありますが、実務上は、使用者の対応如何に関わらず労働契約を確定的に終了させる意思が客観的に労働者から表明されているような場合でなければ、②合意解約の申入れであると解釈される傾向にあります。
2 ①辞職の通知の場合は、辞職の意思表示が使用者に到達してから2週間が経過することにより、労働契約終了の効力を生じることになりますが、辞職の意思表示が使用者に到達しさえすれば、それ自体の効力は生じることになるため、もはや使用者の同意がない限り、退職届の撤回ができないことになってしまいます。
3 ②合意解約の申入れの場合は、労働者による解約の申込みに対し、使用者が承諾することにより、労働契約終了の効力を生じることになりますから、労働者による解約の申込みだけでは、何らの効力も生じないため、使用者による承諾があるまでの間は、特段の事情がない限り、退職届の撤回ができることになります。
4 どういった場合に使用者による承諾があったと認められるかについては、従業員の退職届を承認する権限を有する者が正式に退職届を受け取ったか否かが判断を分けるポイントといえます。すなわち、従業員の退職届を承認する権限を有する者が正式に退職届を受け取っているのであれば、使用者による承諾があったと認められ、退職届の撤回ができないことになるのに対し、そうでなければ(従業員の退職届を承認する権限を有さない者が正式に退職届を受け取ったとしても)、使用者による承諾があったとは認められず、退職届の撤回ができることになります。
5 今後の対応としては、まず、今回の退職届の提出が、辞職の通知ではなく、合意解約の申入れにとどまることを前提に活動する必要があります。その上で、相談者様は、直属の上司である営業部長に対し、退職届を提出しているということですが、営業部長は、通常、従業員の退職届を承認する権限を有さないと考えられるため、会社に対しては、この点を指摘した上で、使用者による承諾があったとは認められず、退職届の撤回ができる旨を主張することになるでしょう。そして、その後に会社から退職届受理承諾書が送付されてくる場合もあるため、相談者様としては、出来る限り早いタイミングで、内容証明郵便の方法により、退職届の撤回を内容とした通知書を送付した方が宜しいかと思います。
6 その他本件に関連する事例集はこちらをご覧ください。
解説
1 労働契約に関する法規解釈の指針
先ず、労働法における雇用者(使用者)、労働者の利益の対立について説明します。本来、資本主義社会において私的自治の基本である契約自由の原則から言えば、労働契約は使用者、労働者が納得して契約するものであれば特に不法なものでない限り、どのような内容であっても許されるようにも考えられますが、契約時において使用者側は経済力、情報力からも雇う立場上有利な地位にあるのが一般的ですし、労働力の対価として賃金をもらい日々生活する関係上、労働者は長期間にわたり拘束する契約でありながら、常に対等な契約を結べない危険性を有しています。
又、労働契約は労働者が報酬(賃金)を得るために使用者の指揮命令に服し従属的関係にあることが基本的特色(民法623条)であり、契約後も自ら異議を申し出ることが事実上阻害され不平等な取扱いを受ける可能性を常時有しています。仮に労働契約内容に不満であっても、労働者側は、退職する自由しか与えられないことになってしまいます。
このような状況は個人の尊厳を守り、人間として値する生活を保障した憲法13条、平等の原則を定めた憲法14条の趣旨に事実上反しますので、法律は民法の雇用契約の特別規定である労働法等(労働組合法、労働関係調整法、労働基準法の基本労働三法、労働契約法)により、労働者が雇用主と対等に使用者と契約でき、契約後も実質的に労働者の権利を保護すべく種々の規定をおいています。
法律は性格上おのずと抽象的規定にならざるをえませんから、その解釈にあたっては使用者、労働者の実質的平等を確保するという観点からなされなければならない訳ですし、雇用者の利益は営利を目的とする経営する権利(憲法29条の私有財産制に基づく企業の営業の自由、経済的利益確保の自由)であるのに対し、他方労働者の利益は毎日生活し働く権利ですし(憲法25条、生存権)、個人の尊厳確保に直結した権利ですから、使用者側の指揮命令権、労働者側の従属性が存在するとしてもおのずと力の弱い労働者の賃金および労働条件、退職等の具体的利益を侵害する事は許されないことになります。従って、解釈に当たっては、積極的に私的自治の原則に内在する、信義誠実の原則、権利濫用禁止の原則、個人の尊厳保障の法理(憲法12条、13条、民法1条、1条の2)が発動されなければならない分野です。
ちなみに、労働基準法1条も「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を満たすべきものでなければならない。」第2条は「労働条件は労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである。」と規定しています。以上の趣旨から契約上、法文上の形式的文言にとらわれることなく使用者側、労働者側の種々の利益を考慮調整し実質的対等性を確保する観点から労働法を解釈し、労働契約の有効性を判断することになります。
2 労働者からの退職の意思表示の解釈
労働者から退職の意思表示をした場合、この退職の意思表示については「辞職」の意思表示か「合意解約の申し入れ」のいずれかと解されることになります。
⑴ 辞職の通知(民法627条)
辞職とは、労働者の一方的な意思表示による労働契約の解約をいいます。
労働者は原則として自由に辞職することができますが、辞職の意思表示が使用者に到達してから2週間を経過した時点で、労働契約が終了することになります。なお、期間の定めのある労働契約の場合は、期間中の辞職の通知が認められるのは、やむを得ない事由がある場合に限られ、勤務しないと損害賠償の対象となります。
ここで注意すべきなのが、労働契約終了の効力が生じるのは、辞職の意思表示が使用者に到達してから2週間を経過した時点ですが、辞職の意思表示自体の効力は、使用者に到達した時点で生じる、という点です。すなわち、辞職の意思表示が使用者に到達しさえすれば、それ自体の効力は生じることになるため、もはや使用者の同意がない限り、退職届の撤回ができないことになってしまいます。
⑵ 合意解約の申入れ
次に合意解約とは、使用者と労働者との合意による労働契約の解約をいいます。退職届について使用者の承諾という双方の意思表示が合致して退職という効力が発生します。
労働者による解約の申込みだけでは、何らの効力も生じないため、使用者による承諾があるまでの間は、特段の事情がない限り、退職届の撤回ができることになります(大阪地裁平成9年8月29日判決参照)。
それでは、どういった場合に使用者による承諾があったと認められるのでしょうか。
この点に関し、最高裁昭和62年9月18日判決は、人事部長が退職届を受理したことをもって、使用者による承諾が即時になされたものというべきであるとして、結論として、退職届の撤回は認められない、との判断を示しています。ただ、この事案では、人事部長が、固有の職務権限として、従業員の退職届を承認するか否かを単独で決定し得る権限を有し、この点が会社の職務権限規程にも記載されていたことが、重要な考慮要素になっていると考えられます。
そのため、従業員の退職届を承認する権限を有する者が正式に退職届を受け取ったか否かが判断を分けるポイントといえます。すなわち、従業員の退職届を承認する権限を有する者が正式に退職届を受け取っているのであれば、使用者による承諾があったと認められ、退職届の撤回ができないことになるのに対し、そうでなければ(従業員の退職届を承認する権限を有さない者が正式に退職届を受け取ったとしても)、使用者による承諾があったとは認められず、退職届の撤回ができることになります。
実際に、従業員の退職届を承認する権限を有さない者が退職届を受け取ったにすぎず、使用者による承諾があったとは認められないとして、退職届の撤回を肯定した裁判例として、岡山地裁平成3年11月19日判決が存在します。
なお、権限を有しない者が退職届け出を受理した場合も、その後に会社から退職届受理承諾書が従業員に送付されてきたときは、その受取り時点で、使用者による承諾があったと認められ、退職届の撤回ができないことになります。
3 「辞職」か「合意解約の申し入れ」か
上記のとおり、「辞職」と「合意解約の申し入れ」については、労働契約解消に必要な要件や意思表示後の撤回の可否という点で大きく異なります。
労働者から会社に対して、労働契約を終了させる意思表示をする場合、口頭による退職の意思表示のほか、退職願や辞表などその様式は様々であり、これらの意思表示が「辞職」か「合意解約の申し入れ」かは、解釈の問題となります。
大阪地裁平成10年7月17日判決は、労働者の口頭による退職の申し入れについて、当該申し入れが「辞職」にあたるか「合意解約の申し入れ」にあたるかを判断した裁判例です。この裁判例では、以下のとおりまず「辞職」と「合意解約の申し入れ」を分ける判断基準について判示し、その後、事案を細かく検討したうえで、労働者の退職の意思表示は「合意解約の申し入れ」であったと認定しています。
大阪地裁平成10年7月17日判決
「労働者による一方的退職の意思表示(以下「辞職の意思表示」という。)は、期間の定めのない雇用契約を、一方的意思表示により終了させるものであり、相手方(使用者)に到達した後は、原則として撤回することはできないと解される。しかしながら、辞職の意思表示は、生活の基盤たる従業員の地位を、直ちに失わせる旨の意思表示であるから、その認定は慎重に行うべきであって、労働者による退職又は辞職の表明は、使用者の態度如何にかかわらず確定的に雇用契約を終了させる旨の意思が客観的に明らかな場合に限り、辞職の意思表示と解すべきであって、そうでない場合には、雇用契約の合意解約の申込みと解すべきである。」
「かかる観点から原告が平成八年八月二六日にした高田常務に対する言動を見るに、原告は、「会社を辞めたる。」旨発言し、高田常務の制止も聞かず部屋を退出していることから、右原告の言動は、被告に対し、確定的に辞職の意思表示をしたと見る余地がないではない。しかしながら、原告の「会社を辞めたる。」旨の発言は、高田常務から休職処分を言い渡されたことに反発してされたもので、仮に被告が右処分を撤回するなどして原告を慰留した場合にまで退職の意思を貫く趣旨であるとは考えられず、高田常務も、飛び出して行った原告を引き止めようとしたほか、翌八月二七日にもその意思を確認する旨の電話をするなど、原告の右発言を、必ずしも確定的な辞職の意思表示とは受け取っていなかったことが窺われる。したがって、これらの事情を考慮すると、原告の右「会社を辞めたる。」旨の発言は、使用者の態度如何にかかわらず確定的に雇用契約を終了させる旨の意思が客観的に明らかなものではあるとは言い難く、右原告の発言は、辞職の意思表示ではなく、雇用契約の合意解約の申込みであると解すべきである。」
上記の裁判例の判旨からは、労働者の退職の意思表示について「辞職」の意思表示と解釈されるのは「使用者の態度如何にかかわらず確定的に雇用契約を終了させる旨の意思が客観的に明らかな場合」というように極めて限定されるということが読み取れます。そして、具体的な事実の検討では、退職の意思表示をするに至った経緯、使用者のほうで確定的な退職の意思表示として受け取っていたかなどを細かく検討したうえで、裁判例における退職の意思表示を合意解約の申し入れと認定しています。
本件でも、あなたの退職の意思表示は上司との口論を発端とするものであり、この点については、辞職の意思表示と認定されにくくなる一事情といえるでしょう。
4 今後の対応
まず、今回の退職届の提出が、辞職の通知ではなく、合意解約の申入れにとどまることを前提に活動する必要があります。
その上で、相談者様は、直属の上司である営業部長に対し、退職届を提出しているということですが、営業部長は、通常、従業員の退職届を承認する権限を有さないと考えられるため、会社に対しては、この点を指摘した上で、上記の裁判例に照らせば、使用者による承諾があったとは認められず、退職届の撤回ができる旨を主張することになるでしょう。
そして、その後に会社から退職届受理承諾書が送付されてくる場合もあることからすれば、退職届の撤回の時期(退職届の撤回と使用者による承諾の先後関係)が重要になってくるといえます。そこで、相談者様としては、出来る限り早いタイミングで、退職届を撤回し届出書を返してもらうよう伝えることが必要です。万一返還されないような場合は、使用者側が退職を主張する恐れもありますので内容証明郵便の方法により、退職届の撤回を内容とした通知書を送送付した方が宜しいかと思います。内容証明郵便の方法によれば、郵便局が通知書の内容及び会社が通知書を受け取った時期を証明してくれるため、これらを証拠化することができます。
上記のように、退職届の撤回の時期(退職届の撤回と使用者による承諾の先後)が重要になってくるため、ご自身での対応が難しいようであれば、お近くの、労働問題に詳しい法律事務所に直ぐにご相談に行かれることをお勧めします。
以上