新銀座法律事務所 法律相談事例集データベース
No.1355、2012/10/16 10:28 https://www.shinginza.com/qa-hanzai.htm

【刑事・被害者との示談交渉と労災給付の関係・不法行為責任と労災保険法との関係・通達・昭和38年6月17日基発687号】

質問:先日,私は,お酒を飲みすぎたために駅の通路で座り込んでいました。すると駅の警備員の方が私に声をかけ,「他のお客様の迷惑になるので,通路に座るのはご遠慮願います」と言われました。私は腹が立ち,警備員の方に対して数発,拳骨で殴ってしまいました。その後,警備員により警察に連行されましたが,仕事もあるということでなんとか自宅には帰らせてもらいました。数日後,警察から私に連絡があり,「被害者から診断書を提出してもらった。被害者はあなたの暴行により口の中を切ったようだが,傷は完治したようだ。証拠がそろったので近いうちに検察官に事件を送致する。恐らく罰金になるだろう」といわれました。私はどうすれば良いのでしょうか。示談で全て清算し,罰金処分を避けることは可能でしょうか。前科前歴はありません。示談の方法も教えてください。

回答:
1.まずは被害者と示談することが先決です。示談すれば罰金処分を回避できる可能性が高くなります。なお本件は,被害者の勤務中に起きた事件ですから,労災との関係で,示談条項の細かい文言に留意する必要があります。詳しくは解説を参照ください。
2.関連事例集567番548番参照。

解説:
1 事案の見通しについて
  被害者は口の中をきって診断書が提出されているということですから,傷害罪(刑法)が成立します。現在は警察段階で捜査が進んでいるようですが,あなたや被害者の取り調べ,目撃者の取り調べ,現場検証等により証拠収集が終了した後,事件は検察官に送致されます。その後は検察官があなたを取り調べ,必要があればさらに警察により捜査が行われ,裁判による証拠が十分と判断されれば,検察官が終局処分を行うことになります。  この点,いかなる終局処分を行うかについては起訴便宜主義が採用されており,検察官の裁量に委ねられています(刑訴法248条)。
  本件の場合,あなたに前科前歴がなく,酔余の上の偶発的犯行であることからすれば,もっとも重くても罰金処分で終結するケースが多いといえます。ただし,適当な金額で示談が成立すれば「犯罪後の情況」が良好であるとして,不起訴処分(起訴猶予)の可能性が見込まれる事案であるといえます。

2 示談の方法
(1)示談交渉に至るまで
  本件のような傷害事件の場合,理屈の上では,被疑者と被害者が直接示談交渉を行うことも可能です。しかし,被害感情や被疑者への畏怖等から,被害者が被疑者と直接交渉することを拒むことが多く,被害者との直接の示談交渉は実現が不可能である見込みが高いです。
  むしろ被疑者と被害者の方が知り合いなどといった事情がない限り,示談を行いたい場合は,弁護人を選任の上,弁護人を通じて示談交渉を行うことが一般的です。弁護人を選任した後は,被害者に対する謝罪文や不接近誓約書の作成(正当な理由なく被害者に近づかないことを制約する書面),示談金の準備等を行う必要があります。

(2)示談の内容について
  ア 本件における法律関係の整理
  本件の場合,被害者は,業務中に暴行を受けたものであるため,@業務災害として労働基準監督署に対して労働者災害補償保険給付(以下,「労災保険給付」)を申請することが可能です(労働者災害補償保険法(以下,「労災保険法」)7条1項1号,12条の8第1号)し,A加害者であるあなたに対して不法行為に基づく損害賠償請求(民法709条)を行うことも可能です。
  なお,本件のように,労災保険給付の原因たる事故が第三者の行為などによって生じたもので,労災保険の受給権者である被災労働者に対して第三者が損害賠償の義務を有しているものを,特に「第三者行為災害」といいます。第三者行為災害の事案においては,被害者が労災保険給付及び加害者に対する損害賠償請求権をそれぞれ被害者が満額受給できるとすれば,被害者は実損害額以上の金銭を取得することになり不合理です。そのため,労災保険法は,被害者が労災保険給付を受けた場合には給付額の限度で政府が損害賠償請求権を代位取得すること(労災保険法12条の4第1項),加害者が先に被害弁償を行った場合にはその価格の限度で労災保険給付を行われないことがありうること(労災保険法12条の4第2項),をそれぞれ規定し,被害者に対して損害の二重補填がなされることを回避する仕組みになっています。
  したがって,加害者としても,被害者に対して二重に金銭給付を行う義務はないので,本件で示談交渉を行う場合には,被害者が既に労災保険給付を受けているか確認の上,損害の回復を示談金で補填するのかそれとも労災保険給付で補填するのか視野に入れた交渉を行うことが有益です。但し,金額にもよりますが,示談を急いでいる場合は事実上一部二重の賠償を受ける結果になることもあると思われます。

  イ では具体的に労災保険給付を受けているか否かで具体的にどのように示談内容が変わってくるのか,以下ご説明します。

(ア)既に労災保険給付がなされた後に示談交渉する場合
  本件では,数発拳骨で殴ったということですから,労災保険給付のうち,療養補償給付を被害者が受けることになると思われます(労災保険法12条の8第1号)。療養補償給付の内容は下記のとおりです。
一  診察
二  薬剤又は治療材料の支給
三  処置,手術その他の治療
四  居宅における療養上の管理及びその療養に伴う世話その他の看護
五  病院又は診療所への入院及びその療養に伴う世話その他の看護
六  移送

  この点,療養補償給付は,以上の6項目に該当する療養につき,労災指定病院等で無料の療養の現物給付を受けるのが原則です(労災保険法13条1項2項)。
  ただし,療養の給付をすることが困難な場合または療養の給付を受けないことについて労働者に相当の理由がある場合には,療養の給付に代えて療養の費用が給付されることになります(労災保険法13条3項,労災保険法規則11条の2)。例えば,近くに指定病院等が存在しない場合などがこれに該当します。
  そのため本件では,被害者が労災指定病院において療養給付を受けたのか,一般の病院で診察の上で療養の費用の給付を申請したのか,という点についての確認する必要があるでしょう。
  
  ただし,療養補償給付の支給内容については上記のとおりなので,診断書作成料や精神的慰謝料については給付を受けることは出来ませんし,病院までの通院交通費についても,給付を受けられない場合があります(なお,交通費については「六 移送」として支給されるかが問題となり,通院費用については,通院距離が4q以内でも交通機関を利用する距離が2qを超える場合等に必要と認められる限度でのみ支給されることになります(昭37年9月18日基発951号,48年2月1日基発48号))。そのため,示談交渉を行う場合には,診断書作成料や慰謝料などの労災保険給付によって補填されていない損害を埋めることを念頭においた交渉が求められるといえます。実務上は,刑事処分を回避するために「宥恕文言」入りの示談(刑事処分を不起訴にもっていくときは,被害者の処罰請求権を放棄するという宥恕文言が必要となります。)が行われるので,法的被害額の計算よりも多く被害弁償を行い,検察官に対し不起訴処分を要請することになりますから,あまり細かい計算によると示談交渉が困難になる可能性もあります。

(イ)労災保険給付申請前に示談交渉する場合
  第三者行為災害の事案では,Aの不法行為による請求権を清算するために示談交渉を行うことがよく見受けられますが,示談では実損害額と異なる金額によってAの請求権を清算することも可能です。そのため,上述の労災保険法12条の4第2項との関係で,(特に示談金額が実損害額に満たない場合に)示談金が支払われた場合に@の労災保険給付内容にどのような影響を与えるのかが問題となります。
  この点については,通達が存在し(昭和38年6月17日基発687号),実務の運用を支えています。
  すなわち同通達では,原則として示談が成立している場合であっても保険給付は行われるが,
(@)示談が真正に成立していること
(A)示談の内容が,受給権者の第三者に対して有する損害賠償請求権(保険給付と同一の事由に基づくものに限る。)の全部の填補を目的としている
  上記2要件を全て充たしている場合に限り,保険給付を行わないものとしています。なお,(@)との関係では,
・心裡留保(民法93条)
・錯誤(民法95条)
・詐欺(民法96条1項)
・強迫(民法96条1項)
以上の事情がある場合には,真正に成立した示談とは認められないとされています。
また,(A)との関係では,
・損害の一部について保険給付を受けることとしている場合
・示談書の文面上,全損害の填補を目的とすることが明確でない場合
・示談書の文面上,全損害の填補を目的とする旨の記述がある場合であっても,示談の内容,当事者の供述等から,全損害の填補を目的としているとは認められない場合
  
  以上の場合には,損害の全部の填補を目的としているものとは認められないものとして取り扱うこととされています。
  すなわち,示談で清算できていない損害がある場合には,被害者に労災保険給付がなされ,後に政府から加害者に対して請求がなされるということが分かります。これでは事案の終局解決として迂遠ですし,加害者としても,示談で全て清算したつもりでいたにもかかわらず,後の政府からの請求に驚きを覚えるなどといった事態は好ましくないと思われます。実際被害の一部しか支払われていないのであればやむを得ないと考えることになります。
  そのため,労災保険給付の申請前に被害者と示談する場合には,上記通達を踏まえた交渉を行い,終局的な解決を見越した示談交渉を行う必要があります。
  例えば,「被疑者及び被害者は,本件和解により,被害者に生じた全ての損害について清算した。」「被疑者は,被害者に対し,本件によって発生した慰謝料,治療費,診断書作成費用,交通費及びその他の損害金として金○万円を支払う。同支払をもって被疑者及び被害者の間には何ら債権債務関係はない」などといった文言の示談合意書を作成することが必要でしょう。

(ウ)労災給付金受領後の示談の場合ですが,
  被害者が,すでに労災保険金を申請受領している場合,給付額の限度で政府が加害者に対する損害賠償請求権を代位取得することになっていますから,被害者に示談金を支払っても更に政府から損害賠償を請求されることになります。
  しかし,政府の請求を待っていては,刑事処分の終局判断の時点で示談が成立していないとして,又被害者の宥恕文言がないとして(被害者の宥恕文言がないと検察官は不起訴処分にすることをためらい罰金を選択する可能性が生じます。)検察官は罰金による処分を選択する可能性があります。そこで,被害者が労災保険による保険金を受領していたとしても,いくらかの示談金を支払って,示談書を作成するよう弁護人を通じて努力する必要があります。

【参照条文】

<刑事訴訟法>
第二百四十八条  犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる。

<労働者災害補償保険法>
第七条  この法律による保険給付は,次に掲げる保険給付とする。
一  労働者の業務上の負傷,疾病,障害又は死亡(以下「業務災害」という。)に関する保険給付
二  労働者の通勤による負傷,疾病,障害又は死亡(以下「通勤災害」という。)に関する保険給付
三  二次健康診断等給付
第十二条の四  政府は,保険給付の原因である事故が第三者の行為によつて生じた場合において,保険給付をしたときは,その給付の価額の限度で,保険給付を受けた者が第三者に対して有する損害賠償の請求権を取得する。
○2  前項の場合において,保険給付を受けるべき者が当該第三者から同一の事由について損害賠償を受けたときは,政府は,その価額の限度で保険給付をしないことができる。
第十二条の八  第七条第一項第一号の業務災害に関する保険給付は,次に掲げる保険給付とする。
一  療養補償給付
二  休業補償給付
三  障害補償給付
四  遺族補償給付
五  葬祭料
六  傷病補償年金
七  介護補償給付
○2  前項の保険給付(傷病補償年金及び介護補償給付を除く。)は,労働基準法第七十五条 から第七十七条 まで,第七十九条及び第八十条に規定する災害補償の事由又は船員法 (昭和二十二年法律第百号)第八十九条第一項 ,第九十一条第一項,第九十二条本文,第九十三条及び第九十四条に規定する災害補償の事由(同法第九十一条第一項 にあつては,労働基準法第七十六条第一項 に規定する災害補償の事由に相当する部分に限る。)が生じた場合に,補償を受けるべき労働者若しくは遺族又は葬祭を行う者に対し,その請求に基づいて行う。
○3  傷病補償年金は,業務上負傷し,又は疾病にかかつた労働者が,当該負傷又は疾病に係る療養の開始後一年六箇月を経過した日において次の各号のいずれにも該当するとき,又は同日後次の各号のいずれにも該当することとなつたときに,その状態が継続している間,当該労働者に対して支給する。
一  当該負傷又は疾病が治つていないこと。
二  当該負傷又は疾病による障害の程度が厚生労働省令で定める傷病等級に該当すること。
○4  介護補償給付は,障害補償年金又は傷病補償年金を受ける権利を有する労働者が,その受ける権利を有する障害補償年金又は傷病補償年金の支給事由となる障害であつて厚生労働省令で定める程度のものにより,常時又は随時介護を要する状態にあり,かつ,常時又は随時介護を受けているときに,当該介護を受けている間(次に掲げる間を除く。),当該労働者に対し,その請求に基づいて行う。
一  障害者自立支援法 (平成十七年法律第百二十三号)第五条第十三項 に規定する障害者支援施設(以下「障害者支援施設」という。)に入所している間(同条第七項 に規定する生活介護(以下「生活介護」という。)を受けている場合に限る。)
二  障害者支援施設(生活介護を行うものに限る。)に準ずる施設として厚生労働大臣が定めるものに入所している間
三  病院又は診療所に入院している間
第十三条  療養補償給付は,療養の給付とする。
○2  前項の療養の給付の範囲は,次の各号(政府が必要と認めるものに限る。)による。
一  診察
二  薬剤又は治療材料の支給
三  処置,手術その他の治療
四  居宅における療養上の管理及びその療養に伴う世話その他の看護
五  病院又は診療所への入院及びその療養に伴う世話その他の看護
六  移送
○3  政府は,第一項の療養の給付をすることが困難な場合その他厚生労働省令で定める場合には,療養の給付に代えて療養の費用を支給することができる。

<労働者災害補償保険法施行規則>
第十一条の二  法の規定により療養の費用を支給する場合は,療養の給付をすることが困難な場合のほか,療養の給付を受けないことについて労働者に相当の理由がある場合とする。

<民法>
第九十三条  意思表示は,表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても,そのためにその効力を妨げられない。ただし,相手方が表意者の真意を知り,又は知ることができたときは,その意思表示は,無効とする。
第九十五条  意思表示は,法律行為の要素に錯誤があったときは,無効とする。ただし,表意者に重大な過失があったときは,表意者は,自らその無効を主張することができない。
第九十六条  詐欺又は強迫による意思表示は,取り消すことができる。
2  相手方に対する意思表示について第三者が詐欺を行った場合においては,相手方がその事実を知っていたときに限り,その意思表示を取り消すことができる。
3  前二項の規定による詐欺による意思表示の取消しは,善意の第三者に対抗することができない。
第七百九条  故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

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