新銀座法律事務所 法律相談事例集データベース
No.1369、2012/11/8 14:13 https://www.shinginza.com/qa-roudou.htm

【労働・従業員に対する債権の給与からの天引きの可否・最高裁判所平成2年11月26日判決】

≪質問≫
会社としての相談です。従業員が仕事上保管していた会社の備品を換金・着服するという問題が起きました。当社としては,同等の中古品を代替品として購入することで損害の拡大を食い止めました。その後,従業員が代替品購入代金を弁償すると申し出たのですが,一括では支払えないので引き続き働かせてもらって毎月の給料から支払いたいと述べています。当社としてもいわゆる警察沙汰にはしたくないのと,分割でも弁償してもらいたいことから,解雇はせずに毎月の給料から返させたいと思います。給与からこの分割弁償金を天引きしたうえで残金を支給するということは問題ないでしょうか。

≪回答≫
1.会社が従業員に対して損害賠償請求権を有しているとしても,一方的に給料と相殺することは法律で禁じられています(労働基準法24条,17条)。
2.例外的に,従業員が自由な意思に基づいて,使用者に対する債務と自分の給料債権とを相殺する(給料から天引きする)ことに同意した場合であれば,相殺(天引き)も許されると解されています(最判平成2年11月26日後記参照)。
3.当該従業員に対して公式に弁明の機会を与え,それを踏まえて就業規則に基づく懲戒処分をするかどうかを決め,併せて弁償についても公式に協議を行って従業員からの真摯な申出があったことを証拠化しておくことが有益です。
4.手続の適正を担保するためにも,一連の手続を弁護士に依頼することが考えられます。
5.関連事例集論文1359番1133番1062番925番915番842番786番763番762番743番721番657番642番458番365番73番5番。労働審判は,995番参照。

≪解説≫

【労働法,労働契約解釈の指針】
 先ず,労働法における雇用者,労働者の利益の対立について申し上げます。本来,資本主義社会において私的自治の基本である契約自由の原則から言えば,労働契約は使用者,労働者が納得して契約するものであれば,特に不法なものでない限り,どのような内容であっても許されるようにも考えられますが,契約時において使用者は経済力からも雇う立場上有利な地位にあるのが一般的ですし,労働者は労働力を提供して賃金をもらい生活する関係上から、さらに長期間にわたり指揮命令を受けて拘束される契約の性質上,常に対等な契約を結べない危険性を有しています。
 しかし,そのような状況は個人の尊厳を守り,人間として値する生活を保障した憲法13条,平等の原則を定めた憲法14条の趣旨に事実上反しますので,法律は民法の雇用契約の特別規定である労働法等(基本労働三法等)により,労働者が対等に使用者と契約でき,契約後も実質的に労働者の権利を保護すべく種々の規定をおいています。法律は性格上おのずと抽象的規定にならざるをえませんから,その解釈にあたっては使用者,労働者の実質的平等を確保するという観点からなされなければならない訳ですし,雇用者の利益は営利を目的にする経営する権利(憲法29条の私有財産制に基づく企業の営業の自由)であるのに対し,他方労働者の利益は毎日生活し働く権利ですし,個人の尊厳確保に直結した権利ですから,おのずと力の弱い労働者の利益を保護する配慮が要求されることになります。
 ちなみに,労働基準法1条は「労働条件は,労働者が人たるに値する生活を営むための必要を満たすべきものでなければならない。」第2条は「労働条件は労働者と使用者が,対等の立場において決定すべきものである。」と規定するのは以上の趣旨を表しています。従って,以上の趣旨を踏まえて賃金の全額払いの原則、例外を検討し,法規等の解釈が必要となります。

【使用者からの損害賠償請求に関する問題】
 給料からの天引きが許されるかという質問の前段階として,使用者から従業員に対して,仕事上のミスに関して損害賠償請求が許されるかという問題がありますので,この点に軽く触れておきたいと思います。
 仕事上のミスというものは,たとえまじめに勤務していても生じうるもので,ミスによって生じた損害の全部を常にミスをした従業員に賠償できるとはいえません。従業員の不注意の程度の大小など,諸般の事情を考慮することとなります。
 また,従業員に賠償を請求しうるとしても,発生した損害の全部について請求できるのか,それともそのうちの一部に限られるのか,という問題もあります。ミスは生じうるものということを前提に,使用者側で適切な管理体制がとられていたかなどが考慮されて,損害賠償請求が実際に生じた損害の一部に限ってのみ認められるという例も多々あります。
 このように,そもそもミスをして損害を発生させた従業員に対して,使用者がどこまで損害賠償請求できるのかということ自体が問題となり得ます。
 ただし,本件について伺った限りの事情によりますと,仕事上保管していた備品を換金・着服したということですので,単なるミスにとどまらない故意に基づく行為であり,犯罪(業務上横領罪)すら成立しうる事案といえます。そのため,おそらくは発生した損害の全部についての損害賠償請求が認められうる事案ではないかと思われます。この辺りについての踏み込んだ判断に際しては,もう少しご事情をお聞かせいただいたうえであれば,ご回答も可能かと思います。

【給与からの天引き,控除,相殺が認められるか――賃金全額払いの原則との関係】
 さて,本題に入ります。
 まず原則として,使用者が従業員に対して損害賠償請求権を持っているとしても,従業員の同意なく一方的に給料とその損害賠償請求権とを相殺することはできません。つまり,給与からの天引き,控除は認められていません。
 その法律上の根拠は,労働基準法24条1項です。使用者には,従業員に対して給料全額を支払うことが要求されていて,この決まりは「賃金全額払いの原則」と呼ばれています。同条項は、賃金の支払いに関して「通貨で」「直接労働者に」「全額を」支払わなければならないとし、さらに同条2項で「毎月1回以上、一定の期日を定めて」支払わなければならないと規定しています。趣旨,狙いは,賃金が労働者の唯一の収入の手段であり、生活の糧であることから賃金の全額が毎月労働者の手元に確実に入るようにして労働者の生活を保護することにあります。

 相殺に関しては、相殺により、賃金全額を支払わずに賃金債権を消滅させることになり、賃金全額払いの原則、つまり使用者が一方的に給料からの控除をすることを禁止して,従業員に給料の全額を受け取らせることで,労働者の経済生活が脅かせることがないように期するという点に反することになります。
 これに対する違反は労働基準監督署による監督の対象となりますので,使用者側としては注意が必要です。
 労働基準法24条1項には但書があり,法令や労使協定に基づく場合を例外として定めていますが(例えば厚生年金の保険料や労働組合の組合費など賃金から控除することは形式的に見ると全額払いの原則には反しますが、合理的な理由があり労働者の生活に影響がないということで例外として認められます。),それらにあたらない限り,同条項本文の原則に従うこととなるというのが条文の構造です。
  つまり,使用者が従業員に対して損害賠償請求権を有していたとしても,天引きして給料を支給することは許されず,給料は給料として全額を支払ったうえで,別途請求することが原則となります。

【最高裁判例が認めた例外】
 このように,賃金全額払いの原則は使用者側にとって厳しい内容となっていますが,およそ一切の天引きが禁じられているということではなく,厳格な要件は課されているものの,例外が認められると解されています。
 最高裁判所平成2年11月26日判決(日新製鋼事件)は,「労働者がその自由な意思に基づき」相殺に同意し,「同意が労働者の自由な意思に基づいてなされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは」,相殺が可能であると判断しました(相殺についての労働者の同意がある場合ということですから、これは債権者が一方的に相殺をするということではなく、相殺契約で債権を消滅させるという法律構成になると考えられます。但し、そのような相殺契約でも労働者が相殺の同意を迫られる恐れがある事から、労働者の自由な意思や相殺についての合理的な理由という要件が必要になります。)。このような場合であれば,賃金全額払いの原則を定めた趣旨に反しないといえるためです。
 したがって,本件においても,天引きをするためには上記の要件を満たすといえるように注意しなければなりません。従業員側から,後日,この点の指摘を受けたとしても堂々と跳ね返せるだけの理論武装と実践が必要です(労働者が訴訟で賃金を請求する場合、原告労働者は一定期間労働力を提供したことを請求の原因として主張立証し、被告側の会社は現金で支払った分と相殺分による賃金債権の消滅を抗弁として主張することになりますから、相殺の有効性についての立証責任は被告会社にあります。裁判は立証責任にある側に敗訴の危険があると言えるので相殺が有効となるための事前の準備が必要になります。)。

【自由な意思に基づく同意があったといえるかの高いハードル】
 従業員による自由な意思に基づく同意があったといえるためには,単にその旨の一筆を書かせれば済むというような容易い問題ではありません。上記最高裁判決も「同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は,厳格かつ慎重に行われなければならないことはいうまでもない」としており,表向きだけを取り繕っても半強制的な事情が疑われてしまう危険があります。
 上記最高裁判決の書き方によると,「自由な意思に基づいてなされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する」ことの立証責任は使用者側に課されていると読めます。つまり,会社側が合理的な理由が客観的に存在することを証明できない限り,賃金全額払いの原則違反だと認定されてしまうのです。反面,従業員側としては,半強制だったことまでの証明をする必要はなく,その疑いを生じさせれば十分ということになります。
 この立証責任の分担を踏まえて,万全を期すつもりで対処すべきでしょう。

【弁護士に対する具体的手続の依頼】
 そこで考えられるのが,自由な意思に基づく天引きの同意を得るまでの当該従業員に対する諸手続の一切を丸ごと弁護士に代理させる手法です。
 使用者側が勢いに乗じて従業員に同意を求めれば,後日,強いられた同意だったと言われてしまうリスクも高いといえます。今回,自ら天引きを申し出ている点についてもきちんとしたプロセス・手続保障を経て,それが真に自由な意思であるといえるための裏付け事情を証拠化しておくことが考えられます。
 たとえ故意による悪質な行為であることが明白であっても,従業員に対して,弁明する機会を与えるなどして,決して一方的でなく,慎重な手続を踏まえたことを形に残しておきます。
 そのうえで,損害額を明確に算定し,その根拠を示します。そして,従業員に対する損害賠償請求の可否に関する実際や,本件に対してあてはめた場合の会社側の考えを丁寧に伝えます。もし,当該従業員が持ち帰って考えたいというのであれば,それを許すことも必要でしょう。
 こうした経過を経て,天引きについての合意を形成し,その合意自体も書面として残しておくことが重要だと考えます。立証責任を負っているということはとても大変なことなのです。
 犯罪行為ともいえる本件事案において,刑事告訴も解雇もしないで分割弁済を認めるというのは相当温情的な措置であるといえます。天引きの合意が成立する見込みは極めて高いでしょうから,あとはそれをぬかりなく実践することです。
 後日,従業員が争って訴訟等になってしまったときに弁護士に依頼するよりも,この紛争予防段階での依頼の方が一般的に弁護士費用も低廉に抑えられるかと思います(顧問契約を結んでいる弁護士であれば,特にその傾向が強いといえます。)。

≪参照法令≫

【労働基準法】
(賃金の支払)
第二十四条  賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。
○2  賃金は、毎月一回以上、一定の期日を定めて支払わなければならない。ただし、臨時に支払われる賃金、賞与その他これに準ずるもので厚生労働省令で定める賃金(第八十九条において「臨時の賃金等」という。)については、この限りでない。

≪参照判例≫

【最高裁判所平成2年11月26日判決(一部抜粋)】

この判決は、会社側(他金融機関からの委託)が労働者に対し住宅資金としての貸金を行い、後に労働者が破産し退職する際に 労働者の合意を得て、右退職金と貸金の相殺の合意を行ったものが賃金全額払いの原則に反するので破産管財人が退職金の返還を求めて事案です。第一審、控訴審、上告審共に自由意思による合意相殺を認めています。退職時であり自由意思による相殺合意を認めたもので妥当性があります。(他破産法の否認権も問題になっています。)

労働基準法(昭和六二年法律第九九号による改正前のもの。以下同じ。)二四条一項本文の定めるいわゆる賃金全額払の原則の趣旨とするところは、使用者が一方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするものというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものであるが、労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である(最高裁昭和四四年(オ)第一〇七三号同四八年一月一九日第二小法廷判決・民集二七巻一号二七頁参照)。もっとも、右全額払の原則の趣旨にかんがみると、右同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に行われなければならないことはいうまでもないところである。

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