新銀座法律事務所 法律相談事例集データベース
No.1501、2014/04/09 00:00 https://www.shinginza.com/seinen-kouken.htm
【民事 両親が意思無能力の場合の相続問題と対策 東京地裁平成9年10月24日判決】
成年後見人申し立て前の財産管理問題
質問:
先日、弟の代理人と名乗る弁護士から私宛に手紙が届きました。内容は、弟と父との間で交わされた贈与契約に基づき、介護施設で生活する父の財産から1000万円を支払えというもので、最近の日付で父の署名・押印がある贈与契約書の写しが添付されていました。父は高齢で、数年前から痴呆が酷くなってきたため、私が事実上父の財産を管理している状態ですが、数か月前に私と父で共同所有していた不動産(母が亡くなった際、遺産分割協議により共有となったもの)を友人に売却したことで多額の現金があることを知ってか、弟が弁護士とともに父の下に赴き、贈与契約書に署名させたようです。しかし、父は日常会話もままならない状態でしたので、贈与の意味をきちんと理解できていたのか疑問です。私は弁護士の手紙に対してどのように対応したら良いのでしょうか。なお、私の兄弟は弟1人だけであり、元々折り合いが悪かったため、ここ20年ほどは疎遠となっています。
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回答:
1.お父様はその病状に照らして、贈与契約時に意思無能力であったことが疑われます。意思能力がない状態でなされた贈与は無効ですから、弟さんの請求は認められません。しかし、他方であなたは事実上お父様の財産を管理され、共有物を処分して代金を得ているということですが、この様な処分も意思無能力であれば無効となり、あなたの行為もお父様の財産を不正に処分したことになります。このような場合は、事実上財産を管理するのではなく家庭裁判所に成年後見人の選任を申し立てるのが、正しい対処方法です。
2. ただし、今後家庭裁判所により後見開始の審判がなされた場合、成年後見人よりお父様の財産から費消した金銭相当額の損害賠償請求を受けたり、後見人が不動産の買主に対して返還請求等を行うのに伴い、買主から売買代金相当額の返還請求や損害賠償請求を受けたりする可能性があります(民法703条、709条)。後見申立てがなされなかった場合でも、お父様の相続開始後に弟さんから直接贈与金の支払請求を受けたり、財産費消の点につき損害賠償請求を受けたりする可能性がありますし、売却不動産の相続財産への帰属を巡って遺産確認の訴えが提起されたり、それに伴い、買主から売買代金相当額の返還請求や損害賠償請求を受ける事態も考えられます。あなたがお父様の財産を管理するようになってからの、全ての入出金の資料を用意しておく必要があります。
3. かかる事態は、お父様の財産について適正な管理をするための事後処理でありやむを得ないものと言えます。しかし、無用な紛争を回避することも必要です。あくまで、お父様の財産を適正に管理するという見地からの次善の処理ですが、あなたが弟さんに対してお父様の財産やその管理について明らかにし、今回の不動産の処分に関しては有効なものであったことを確認して、お父様の持分の代金の管理ついて弟さんと協議するのが良いでしょう。その上で、今後のお父様の財産の管理については成年後見人の選任を検討すするのが良いと考えられます。いずれにしても高度な法的予測と法的検討の上での対応が必要ですので、弟さんとの交渉も含めて弁護士に依頼するのが無難でしょう。
4. 精神上の障害が窺える場合、然るべき時期に後見申立て等を行っておかないと、あなたのように潜在的な紛争の拡大が予想されるケースも多々見受けられます。判断能力の低下が疑われる場合、将来の紛争を予防するためにも、なるべく早期に弁護士等専門家に相談することが肝要でしょう。
5.関連事例集、1276番、1242番、1185番、1065番、196番
解説:
1.(意思能力の有無)
あなたのお父様は数年前から痴呆が悪化していたとのことですので、贈与契約書に署名した時、意思能力(自分の行為の性質や結果を判断することのできる能力)が存在したか否かが問題となります。意思能力がない状態でなされた契約は無効ですので、お父様が贈与契約時に意思能力がなかったのであれば、弟さんに対して贈与金1000万円を支払う義務(民法549条)は存在しないことになります。
意思能力の有無は法的評価の問題ですので、外見等から一義的に判断することは困難ですが、意思能力の不存在を弟さんに納得させたいということであれば、意思能力の不存在を推認させるような客観的事実を証拠により示せるようにしておく必要があるでしょう。後掲の東京地裁平成9年10月24日判決(老人性痴呆により意思無能力であったとして、公正証書遺言の有効性が争われた事案で、意思無能力と認められた事案)をはじめ、意思能力の有無が争点となった多くの裁判例では、従前の本人の生活状態や言動、問題となっている法律行為の内容の難易度、医学的な所見や医師の意見(診断書)等を総合的に考慮して意思能力の有無を判断しています。
したがって、あなたの場合、最低限、お父様の症状に関する医師の診断書を取得するとともに、問題の贈与契約書作成の経緯や弟さんへの1000万円の贈与意思の真否についてお父様に直接確認する必要があるでしょう。お父様の発言内容の信用性に影響するため、お父様から事情聴取するに際しては、弟さんと同様、弁護士等を同席させるとともに、会話内容は全て録音・反訳して証拠化しておくのが望ましいといえます。
2.(あなたの置かれている状況)
上記のような証拠収集の結果、裁判となった場合に意思無能力と判断される見込みが高いとして、あなたの場合、贈与契約の無効を主張して、弟さんの請求をただ突き返せば良いという単純な状況ではありません。
まず、弟さんにおいて、お父様が意思能力を欠く可能性が高く、贈与金の給付を受けられないことが判明した場合、弟さんから家庭裁判所に対して、後見開始の審判の申立てがなされる可能性があります。後見(成年後見)とは、認知症などをはじめとする精神上の障害により事理弁識能力を欠く常況にある者を保護するための制度であり(民法7条)、後見開始の審判がなされた場合、裁判所より選任された成年後見人が本人(成年被後見人)を代理して契約などの法律行為を行い、また、本人が行った不利益な法律行為を取り消すなどして、本人の利益のためにその財産管理等を行うことになります(民法8条、9条)。後見開始の要件である「事理を弁識する能力を欠く常況にある者」(民法7条)とは、強度の精神障害等により意思能力を欠いている状態を意味するため、意思能力の不存在を主張するということは、成年後見の申立てを誘発する可能性があることを意味するのです。成年後見人には被後見人の配偶者や子が選任されることが最も多いですが、子が互いに異議を述べて後見人選任について意見が一致しなかったり、法的措置を執る必要があったりする場合、弁護士などの専門家が選任されるのが通常です。
お父様に成年後見人が付された場合、後見人は当然、弟さんに対して贈与契約が無効であることを前提とした対応を行うでしょうが(場合によっては、贈与金支払義務の不存在を確認する訴訟を提起する等の法的措置をとることも考えられます。)、従前お父様の財産を管理していたあなたに対しても、お父様の財産から費消された金額につき、使途不明金などがあれば損害賠償請求を受ける可能性があります。そもそも、あなたはお父様から有効な財産管理の委任を受けていない以上、お父様の財産の管理権限は全くありませんので、必要性の乏しい支出等については、お父様に返還する義務があることになります(民法703条、709条)。
また、あなたはお父様と共有名義の不動産を売却したとのことですが、売買の時点でお父様に意思能力がなければ、友人との間の不動産の売買契約もやはり無効です。共有物の処分には共有者全員の同意が必要ですが(民法252条)、意思無能力であればお父様の有効な同意を得たことになりませんので、売買契約全体が無効であり、お父様のみならず、あなたも売買代金全額を買主に対して返還する義務が生じていることになります(民法703条)。後見人は、逸失した財産を取り戻すため、買主に対して不動産の返還請求や売買に基づく所有権移転登記の抹消登記請求を行う可能性があり、これに伴い、あなたは不動産の買主から損害賠償請求を受ける可能性もあります。
しかし、だからといって、弟さんの請求をそのまま認め、請求に応じるというのも問題です。まず、将来、お父様の相続が発生した時、お父様の弟さんに対する贈与金支払債務を2分の1の相続分で承継したとして(民法899条、900条4号本文)、弟さんから500万円の請求を受ける可能性が高いと思われます。また、あなたがお父様の意思無能力を主張した場合、やはりお父様の財産費消の点につき、お父様のあなたに対する損害賠償請求権を弟さんが2分の1の相続分で承継したとして、弟さんから直接損害賠償請求を受ける可能性があります。さらに、不動産の売買契約が無効の場合、当該不動産の所有権は買主に移転しておらず、お父様の相続が発生したことにより相続財産となるべきものですので、遺産の範囲に争いが生じ、弟さんから遺産確認の訴え(当該財産が被相続人の遺産に属することの確認を求める訴え)を提起される可能性があります。その場合、買主からの売買代金相当額の返還請求(民法703条)や損害賠償請求(民法709条)といった事態に発展することも十分考えられます。
いずれにしても、極めて複雑でややこしい事態となることが予想されます。あなたの場合、このような事態を回避するためには、お父様の判断能力の低下が判った時点、遅くても重要な財産である不動産を処分しようとする前の時点で後見開始の審判の申立てを行い、成年後見人に財産管理をしてもらうのが正しい対応であったといえます(申立の時点で弟さんに異議がなければ、あなたが成年後見人に選任されていた可能性もあります。)。
3.(今後の対応)
あなたが置かれている現状で、上記のような事態を回避するためには、あなたと弟さんとの間で、弟さんによる財産的請求(お父様に対する贈与金支払請求、あなたに対する相続発生後の損害賠償請求等)や遺産確認の訴え等による将来の遺産分割協議の複雑化を回避し、かつ、弟さんによる現状のままでの後見開始の審判の申立てを事実上回避できるような合意を取りまとめる必要があります。そのためには、弟さんに対してお父様の診断書を提示するなどして意思無能力である可能性が高いことを理解させつつ、最低限、あなた自身の出損により解決金を提示して交渉することが不可欠でしょう。そもそも、あなたはお父様の財産管理につき何の権限もありませんので、お父様の財産から金銭を支出することは法的に問題があり(親族相盗例の適用により処罰されることはないものの、理論上は横領罪が成立する可能性があります。刑法252条1項、255条、244条)、弟さんにとっても、合意による経済的利益がなければ、敢えて後見申立てを行わないメリットが全くないからです。お父様が意思無能力の可能性が高いことが前提であれば、合意を有効に成立させるためにも、あなたが合意の当事者とならざるを得ないでしょう。
問題は、合意の内容をどのように定めるべきかです。「お父様の後見開始の審判の申立てを行わない」といった直接的な定め方にすると、判断能力が不十分な者の保護やノーマライゼーションといった後見制度の趣旨に正面から反することとなり、公序良俗に抵触する可能性があるため(民法90条)許されませんから、あくまで後見申立てを前提として後見開始後の問題を事実上回避するにとどまるような工夫が必要です。
そのためには、あなたのした不動産の処分行為については、お父様も認めていたことを兄弟で確認し、その代金の管理について協議して決め、場合によってはそれ以前のお父様の財産の管理についても兄弟で確認し、問題がないとしたうえで成年後見の開始について検討されるのが良いでしょう。
お父様の財産ですから、いくら息子である兄弟とは言え勝手に管理することは認められず、自分たちで勝手に財産を管理するために事実上後見申立てをさせないような合意は、判断能力が不十分な者の保護やノーマライゼーションの理念といった観点から許されません。しかし、これまでの管理について相続人となる者であって、本人の扶養義務者でもある者が全員で、将来の紛争の複雑化を回避するという見地から、その適法性を確認し了承するという合意には一定の合理性があると言えます。後見開始の審判の申立権者について規定した民法7条が、後見開始の審判をする「ことができる」としているとおり、後見申立ては権利であって義務ではないので、あなたと弟さんが直ちに後見申立てを行わないことが違法とはいえませんし、これまでの管理について問題がないとする合意成立後に後見申立てを行うこと自体は何ら妨げられませんので(民法7条)、少なくとも、かかる合意が法的に問題があるとまでは言えないでしょう。
合意成立後に第三者が成年後見人に就任した場合、理屈上は、被後見人に不当利得返還債権がある場合は成年後見人もこれを行使するべき善管注意義務を負うことになりますが、親子関係で事実上の財産管理を行っていたケースで、返還請求権の債権額が大きいとは言えず、債権の存否も不明確であって、扶養義務を負担する子供全員が過去の管理内容について了解している場合には、成年後見人としても権利行使に対して慎重になると考えることができるでしょう。成年後見人選任を申し立てても、申し立てなくても、要するに、お父様の財産管理と身上看護が適切に行われれば何ら問題は無いわけですから、お父様の平穏な生活を守るためにどうしたらよいか、兄弟間でも、成年後見人との間でも話し合いをすれば良いでしょう。
なお、あなたも弟さんも、現状でお父様の財産を管理する権限は何ら存在しないため、合意にあたっては、お父様の今後の療養介護のための費用の負担についても取り決めておく必要があるでしょう。また、従前のお父様の財産からの支出については、お父様の相続発生後の損害賠償請求を回避するため、お父様があなたに対して損害賠償請求権を有していないことを弟さんに確認させる必要があり、かかる観点も踏まえた解決案の提示を行う必要があるでしょう。
4.(最後に)
あなたのケースでは、紛争の拡大を回避するためには、上記のとおり、高度な法的予測と法的検討を踏まえた合意書の作成が不可欠となります。対応を誤った場合の不利益が甚大ですので、弟さんとの折衝・交渉も含め、弁護士に依頼するのが無難と思われます。
近年、高齢化社会の進展に伴い、特に高齢者の法律行為の効力に関し、意思能力の有無が争点となる紛争が増加していますが、痴呆等により精神上の障害が窺える場合、然るべき時期に後見申立て等の然るべき法的手続きを執っておかないと、あなたのように潜在的な紛争の拡大が予想される場合も多々見受けられます。親など、高齢の親族の判断能力の低下が疑われる場合、特にその財産を事実上管理しているような場合には、将来の紛争を予防するためにも、なるべく早いタイミングで弁護士等専門家に相談することが肝要でしょう。
≪参照条文≫
民法
(後見開始の審判)
第七条 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、未成年後見人、未成年後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、後見開始の審判をすることができる。
(成年被後見人及び成年後見人)
第八条 後見開始の審判を受けた者は、成年被後見人とし、これに成年後見人を付する。
(成年被後見人の法律行為)
第九条 成年被後見人の法律行為は、取り消すことができる。ただし、日用品の購入その他日常生活に関する行為については、この限りでない。
(公序良俗)
第九十条 公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。
(共有物の管理)
第二百五十二条 共有物の管理に関する事項は、前条の場合を除き、各共有者の持分の価格に従い、その過半数で決する。ただし、保存行為は、各共有者がすることができる。
第四款 免除
第五百十九条 債権者が債務者に対して債務を免除する意思を表示したときは、その債権は、消滅する。
(贈与)
第五百四十九条 贈与は、当事者の一方が自己の財産を無償で相手方に与える意思を表示し、相手方が受諾をすることによって、その効力を生ずる。
(不当利得の返還義務)
第七百三条 法律上の原因なく他人の財産又は労務によって利益を受け、そのために他人に損失を及ぼした者(以下この章において「受益者」という。)は、その利益の存する限度において、これを返還する義務を負う。
(悪意の受益者の返還義務等)
第七百四条 悪意の受益者は、その受けた利益に利息を付して返還しなければならない。この場合において、なお損害があるときは、その賠償の責任を負う。
(債務の不存在を知ってした弁済)
第七百五条 債務の弁済として給付をした者は、その時において債務の存在しないことを知っていたときは、その給付したものの返還を請求することができない。
(共同相続の効力)
第八百九十八条 相続人が数人あるときは、相続財産は、その共有に属する。
第八百九十九条 各共同相続人は、その相続分に応じて被相続人の権利義務を承継する。
第二節 相続分
(法定相続分)
第九百条 同順位の相続人が数人あるときは、その相続分は、次の各号の定めるところによる。
一 子及び配偶者が相続人であるときは、子の相続分及び配偶者の相続分は、各二分の一とする。
二 配偶者及び直系尊属が相続人であるときは、配偶者の相続分は、三分の二とし、直系尊属の相続分は、三分の一とする。
三 配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは、配偶者の相続分は、四分の三とし、兄弟姉妹の相続分は、四分の一とする。
四 子、直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の二分の一とする。
刑法
(親族間の犯罪に関する特例)
第二百四十四条 配偶者、直系血族又は同居の親族との間で第二百三十五条の罪、第二百三十五条の二の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯した者は、その刑を免除する。
2 前項に規定する親族以外の親族との間で犯した同項に規定する罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。
3 前二項の規定は、親族でない共犯については、適用しない。
(横領)
第二百五十二条 自己の占有する他人の物を横領した者は、五年以下の懲役に処する。
2 自己の物であっても、公務所から保管を命ぜられた場合において、これを横領した者も、前項と同様とする。
(準用)
第二百五十五条 第二百四十四条の規定は、この章の罪について準用する。
≪参照判例≫
東京地裁平成9年10月24日半判決
「二 老人に見られる痴呆は、脳血管性痴呆とアルツハイマー型痴呆に大別することができるところ(証人北原)、右一の1に認定したように、Yは、本件遺言をした当時、九四歳という高齢で、既にCT検査により脳血管障害(脳梗塞)の他覚的所見が認められていたことが明らかである上、右一の2の(一)から(五)に認定した事実経過にかんがみると、遅くとも平成四年六月以後においては、Yは、周囲の者の言動に迎合し、周囲の者の意見に従って、自分の財産の管理に関する意思表示を次々と変更し、その旨の文書や手紙の作成を繰り返していたものといわざるを得ない。以上の事実関係に加え、Yの主治医であるK医師が、Yには、A病院に入院した当初から明らかな痴呆が認められ、本件遺言がされた平成四年八月二八日当時、自分の置かれている状況の判断がつかず、日常会話や文字を書くことは可能であったとしても、遺言書を作成することは不可能であった思われるとの趣旨の意見を述べていること(甲三の5、二四)を考慮すると、Yは、平成四年八月二八日の時点においては、周囲の者の指示に従って文字を書く能力は有していたものの、自らの行為の意味と結果を認識し、自らの意思によっていかなる行為をすべきであるのかの判断をする能力を失っていたものと認めるのが相当である。
本件遺言は、横浜地方法務局公証人小川昭二郎に嘱鷹し、同公証人が、A病院に入院中のYのもとを訪れて、その意思を確認して作成されたものではあるが、証人B、同Dの証言によれば、(1)本件遺言書の作成については、同弁護士が、Dから依頼を受けて小川公証人に依頼したこと、(2)板東弁護士は、Dから聞き取った話と第一遺言を取消しにする旨のYの手紙(乙一六)をDを介して受領したことによってYに本件遺言の意思があると判断したものであって、本件遺言に先だって、Yに面会して、その意思を確認したことはなかったこと、(3)板東弁護士は、本件遺言に先立ち、公証人役場に出向いて小川公証人と面会し、あらかじめ本件遺言の文案を作成した上で、小川公証人を伴ってA病院に赴いたこと、(4)小川公証人がYの病室を訪れた際、Yは睡眠中であったが、病室に居たDに起こされて公正証書の作成手続がされたこと、(5)小川公証人がYの病室に入室してから退室するまでの時間は一五分程度であったことが認められるのであって、右(1)から(5)の事実、特に、小川公証人が弁護士を通じて本件公正証書の作成を依頼されたことやYの意思確認に要した時間に照らすと、同公証人は、Yの意思能力の有無について十分に意を用いて確認した上で、本件遺言書を作成したものとは認め難いものといわざるを得ず、本件遺言が公正証書によってされていることをもってしても、これがされた当時のYの意思能力に関する前記認定を左右するには足りない。
以上によれば、本件遺言がされた当時、Yは意思能力を欠いていたものと認めるよりほかはなく、この認定に反する趣旨の証人D及び同Bの供述部分は、以上に認定事実関係に照らし、採用することができない。」