新銀座法律事務所 法律相談事例集データベース
No.1548、2014/09/26 12:00 https://www.shinginza.com/qa-roudou.htm
会社負担による留学後の退職に伴う返金合意の有効性
【労働事件 会社負担による留学後の退職に伴う返金合意の有効性、返還の範囲、労働基準法16条、東京地裁平成10年9月25日、労判756号7頁、東京地判平成16.1.26(明治生命保険事件)】
質問:
私が勤めている商社には,留学制度があります。この制度は,「国際社会に通用する社員を育てる」ことを目的とするもので,社内の留学希望者のうち,社内審査を通った者について,会社が定めた一定範囲の大学に限定して会社が留学費用の全てを負担してくれる,というものです。会社からは,大学の受験料,学費の他に,勤めている会社の現地駐在員への給与規定相当の金員が支給されます。留学中は,月に一度学んだことをレポートにまとめて会社に報告することになっていました。
私も,この制度を使用してMBAを取得したのですが,留学から帰ってきてから配属された部の上司とそりが合わず,帰国後3年間で会社を退職することにしました。しかし,上司にそのことを告げると,留学について会社が負担した金額を全額返せ,というのです。そこで初めて思い出したのですが,確かに私は,留学制度に応募する際に,「留学後,5年以内に会社を辞めた場合は,本制度に基づいて会社が負担した金員の全額を支払います」という誓約書に署名をしてしまっていました。
1年以上留学していたので,支給された費用もかなりの金額になってしまっていると思います。私は,誓約書通りに費用の全額を返す必要があるのでしょうか。
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回答:
1 この問題は,海外留学に際して,会社とあなたとの間でした「留学後5年以内に退職した場合は一切の費用を返還する」との誓約(合意)をした場合に,その合意が有効であるか,という点と,仮に誓約が有効であった場合にどの範囲で返還しなければならないか,という点に分けて考える必要があります。
2 まず,合意の有効性ですが,この合意が有効であるかどうかは,合意が労働基準法16条に反するものであるかどうか,すなわち合意が,留学という会社の「業務」の不履行に対する損害賠償(ないし違約金)を定めるものであるのか,という点により判断されます。
裁判例に基づいて具体的な判断要素を検討すると,合意の有効性を基礎づけるものとしておおよそ
@就業規則では無く,別個の誓約書等により定められていること。
A早期退職による違約金・損害賠償金ではなく,あくまでも貸し付けていた費用の返還を免除する条件として一定期間の勤務継続が定められていること。
B留学制度の目的が業務に直接役立つ技能の習得・人材の育成ではなく,将来の人材育成という性格をもつものであること。
C留学への応募,留学先,留学内容,科目等の選択が従業員に任せられていること(一定程度の制限は可能)。
D留学内容が,会社の業務に関連するものに限定されたり,その中心を構成するものでないこと。
E留学中,留学先から会社に対して,業務に直結する課題や報告の提出を求められないこと。
F留学の内容が,他の会社への転職を容易にする等,従業員にとっても有益なものであること。
G留学後,修得した内容に直接関連する部署での勤務を命じられるようになっていないこと。
H留学後の勤務期間が不当に長いものではないこと。
といった事情を挙げることができます。
本件では,まだ伺っていない事情があるため確実ではありませんが,合意の有効性が認められてしまう可能性が高そうです。
3 では,次に有効であったと仮定した場合の返還範囲ですが,裁判例等を検討する限り,少なくとも人件費,つまり本件においては「勤めている会社の現地駐在員への給与規定相当の金員」については,返還の範囲からは外れる可能性が高いと考えられます。
いずれにしても,あなたは会社から請求される側ですから,早い段階で対応を検討するためにも,あらかじめ弁護士に相談されることをお勧めします。
解説:
1 合意の有効性について
(1)本件のように,会社(使用者といいます。)が費用を負担して従業員を海外に留学させる際に,留学後一定期間内に退職した場合に当該費用を返還させる合意(誓約)を求めることは良くありますし,その場合事前に拒否することは従業員としての立場に鑑みれば困難が伴います。そのような状況下で作成された誓約書が有効と言えるのか疑問があります。
そこで,本件のような場合,あなたが署名してしまった誓約書に基づく合意が有効であるか,という点についてまずご説明します。
このような合意の有効性は,労働基準法16条に違反するのではないか,という疑問があります。つまり,労働基準法16条は「使用者は,労働契約の不履行について違約金を定め,又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」と定めていますから,本件のような合意が,退職という「労働契約の不履行」によって留学費用等相当額の「違約金」ないし「損害賠償額」の支払義務を予め定めている契約に該当する場合には,同法16条に反して無効なのではないか,という疑問です。16条の趣旨ですが、本来労働契約は、経済的な優位性がある使用者と指揮命令に服する労働者の間で締結されるので自由、対等のものとはいえませんから、違約金、損害賠償の予定の合意内容を認めてしまうと、実質的に労働者の権利を制限し生活する権利を侵害することになってしまうので禁止されています。以上の趣旨から判断基準は、抽象的にいえば合意内容が労働契約の一部をなすものか、労働契約とは別個の対等な立場で締結された契約かどうかということになります。
(2)したがって,合意が有効であるためには,まず労働契約の一環・一部としての合意では無く,それとは別個の金銭消費貸借契約(若しくはそのように認定し得るような契約)である必要があります。
つまり,「海外留学後,一定期間内に退職した場合には,違約金として費用相当額を支払う。」という合意は無効ですが,「海外留学に必要な費用については,会社が貸し付けをおこなう。そして,留学後一定期間勤務を継続した場合には,貸し付けた費用の返還を免除する(勤務の継続が無かった場合には返還する)。」という合意であれば,有効であると認められる可能性が高くなる,ということになります。
実際,同種の合意が労働基準法16条に反して無効である,と判断された裁判例(参考裁判例:新日本証券事件)がありますが,この裁判例における合意は,個別の誓約書等によって締結されているのではなく,就業規則によって定められていました。この裁判例は,就業規則に定められているものである以上,金銭消費貸借契約ではなく労働契約である(ため労基法16条に反する),という判断がなされたものである,と解釈されています。
(3)もっとも,合意の文言が「違約金」ではなく「貸金」になっていたら有効,というのではあまりに形式的に過ぎます。裁判例も,単純に合意の文言だけで有効・無効の判断をしている訳ではなく,その留学が「業務性」を有するものであるか,すなわち「その費用を会社が負担すべきものか,当該合意が労働者の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものか」を実質的に判断しているようです
(参考裁判例:野村証券事件)。裁判所は,留学に業務性が認められる場合には,その費用はまさに「会社が負担すべきもの」ですから,労働契約とは別個の契約による金銭の貸し付けであるとはいえない,という解釈を採用しているようです。
では,どのような場合に,留学の「業務性」が否定されるのでしょうか。「業務性」の判断要素ですが,MBA取得のための留学に「業務性」が認められなかった裁判例(参考裁判例:明治生命保険事件)は,@留学制度に応募するか否かは,労働者の自由意思に委ねられており,上司の推薦によるものでも,業務命令によるものではなく,大学に合格し留学が決まれば業務命令として留学を命じられるが,選抜された段階で本人が辞退すれば本人の意思に反して派遣されることはないこと,A派遣先,留学先は,一定範囲の大学に制限されるが,その中から労働者が自由に選択できること,B研究テーマ,研修テーマ,留学先での科目選択は,労働者の自由であり,実際に留学者も自由に選択したこと,C留学中,毎月研修予定研修状況等について簡単な報告書を提出することが義務づけられているが,それ以外に会社から業務に直接関連のある課題や報告を課せられることはなく,長期休暇の利用にも制約はなかったこと,D業務に直接には役立つとはいえない科目(基礎数学等)が履修内容に含まれていた上,その他の科目も,業務には直接的には相当過剰な程度に汎用的な経営能力の開発を目指すものであること,EMBA資格そのものは,留学者の担当職務に必要なものではなく,他方,留学者本人とっては有益な経験,資格であり,他社でも通用する経験利益を得られること,を挙げて,留学の「業務性」を否定して,合意は有効であると判断しています。
他の裁判例も,同じような要素を挙げて留学の業務性を判断しているようです。
(4)以上をまとめると,合意が有効であると判断されるための要素としては,
(返還合意の形式・文言として)
@就業規則では無く,別個の誓約書等により定められていること。
A早期退職による違約金・損害賠償金ではなく,あくまでも貸し付けていた費用の返還を免除する条件として一定期間の勤務継続が定められていること。
(留学の業務性の判断要素として)
B留学制度の目的が業務に直接役立つ技能の習得・人材の育成ではなく, 将来の人材育成という性格をもつものであること。
C留学への応募,留学先(一定程度の制限は可能),留学内容,科目等の選択が従業員に任せられていること。
D留学内容が,会社の業務に関連するものに限定されたり,その中心を構成するものでないこと。
E留学中,留学先から会社に対して,業務に直接する課題や報告の提出を求められないこと。
F留学の内容が,他の会社への転職を容易にする等,従業員にとっても有益なものであること。
G留学後,修得した内容に直接関連する部署での勤務を命じられるようになっていないこと。
H留学後の勤務期間が不当に長いものではないこと(通常5年程度であれば裁判例上認められています)。
といった事項となります。勿論,合意が有効となってしまうためにはこの全ての要素を満たしていることが必要だ,という訳ではなく,これらの事情を総合的に考慮して合意の有効性が判断されることになります。
(5)本件においては,留学後の業務などまだ伺っていない事情がありますが,すでに少なくとも上記@,B,C,E,F,Hは満たしてしまっているようですから,合意の有効性は認められてしまいそうです。
2 返還の範囲について
(1)では,上記の通り本件において合意が有効であることを前提として,返還しなければならない費用の範囲はどこまでなのでしょうか。本件の誓約書に記載してあったようにかかった「費用」の全額を返還しなければならないのかが問題となります。
(2)返還の範囲については,直接判断した裁判例等が乏しいところではありますが,少なくとも「人件費」については返還する必要はないと考えられているようです。これも,上記同様,本来使用者である会社が労働者である従業員に対して負担すべき費用については合意によって免れることができない,という趣旨に基づくものであると考えられております。
そこで,「人件費」ですが,これは基本的には賃金・手当を指します。
参考裁判例の明治生命保険事件は,「留学費用(ただし,人件費相当分を除く)」の返還,という誓約(合意)に基づく支払い請求事件ですが,裁判所は上記の通り合意の有効性を認めた上で,返還すべき留学費用は「賃金(人件費)に当たらないことが明確とはいえない駐在員規定ないし駐在員運用事項を準用して支出された金員(準用に際し取扱内規により金額が増減されたものを含む)以外の留学に必要な費用をいうと理解するのが合理的である。」として,大学の授業料と大学の出願料の範囲で,その返還を認める判断をしました。
(3)本件においては,大学の受験料,学費(の相当額)については返還する必要がありますが,他方最も高額になりそうな「勤めている会社の現地駐在員への給与規定相当の金員」はまさに人件費ですから,返還する必要はないと考えられます。
3 まとめ
ご相談に対するご回答は以上となりますが,本件のように実際に会社から返還を求められた場合にどのように対応するべきなのかについては,すなわち訴訟まで持ち込むのか,上記の通り返還が認められるであろう範囲に限定して返還するだけで済むように交渉するのか,訴訟になるリスクとこちらの言い分が認められる可能性のバランスや,会社の請求金額,あなたの経済的な状況等を含めて検討されるべきものです。
あなたは請求を受ける側なので,後手に回って意図しないまま裁判になってしまった,といった事態を避ける為にも,交渉段階で弁護士に相談することをお勧めします。
【参照条文】
労働基準法
(賠償予定の禁止)
第十六条
「使用者は,労働契約の不履行について違約金を定め,又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」
【参考裁判例】
東京地判平成10.9.25労判756号7頁(新日本証券事件)抜粋
「三 争点3(留学費用返還に関する本件留学規程一八条と労働基準法一六条)について
前記認定事実に,(証拠略)及び弁論の全趣旨を併せて考えれば,原告の就業規則七七条は,「会社は,従業員の能力開発を援助するたため,別に定めるところにより研修を行う」旨定め,従業員研修要綱は,この規定に基づき,研修体系を定めており,本件留学規程は,従業員研修要綱の定める職場外研修のうち派遣研修について定めるものであること,本件留学規程は,従業員を大学,大学院及び学術研究機関等に派遣して,証券業務に関する専門的知識の吸収,諸資格の取得及び国際的視野の拡大に努めさせ,もって会社の発展に寄与することを目的とするものであり(一条一項),人事部長が指名して留学を命ずる場合のほか,留学を希望する者が応募した場合であっても,選考により留学が決定されると,原告が当該従業員に対し,海外に留学派遣を命ずるのであり(一条二項,二条二項),留学派遣先の専攻学科は原告の業務に関連のある学科を専攻するものとし(六条),留学に要する費用は原則としてその全額を原告が負担するものとし(一五条),留学生は,修(ママ)了後遅滞なく,留学に要した費用を,領収書等の証憑を添付して原告が指定する方法で精算しなければならないとし(一七条),留学期間中の給与等について特則を規定している(二一条,二二条)ほか,就業規則,海外勤務規程等を適用することとしている(三条)のであって,これらの諸条項とともに「この規程を受けて留学した者が,次の各号の一に該当した場合は,原則として留学に要した費用を全額返還させる。
(1)(略),(2)留学終了後五年以内に自己都合により退職し,又は懲戒解雇されたとき」と規定している(一八条)こと,以上のとおり認められる。
そうすると,原告は,海外留学を職場外研修の一つに位置付けており,留学の応募自体は従業員の自発的な意思にゆだねているものの,いったん留学が決定されれば,海外に留学派遣を命じ,専攻学科も原告の業務に関連のある学科を専攻するよう定め,留学期間中の待遇についても勤務している場合に準じて定めているのであるから,原告は,従業員に対し,業務命令として海外に留学派遣を命じるものであって,海外留学後の原告への勤務を確保するため,留学終了後五年以内に自己都合により退職したときは原則として留学に要した費用を全額返還させる旨の規定を本件留学規程において定めたものと解するのが相当である。留学した従業員は,留学により一定の資格,知識を取得し,これによって利益を受けることになるが,そのことによって本件留学規程に基づく留学の業務性を否定できるわけではなく,右判断を左右するに足りない。
これを被告の留学についてみれば,(証拠略)及び被告本人尋問の結果によれば,被告は,留学先のボストン大学のビジネススクールにおいて,デリバティブ(金融派生商品)の専門知識の修得を最優先課題とし,金融・経済学,財務諸表分析(会計学)等の金融・証券業務に必須の金融,経済科目を履修したこと,被告は,留学期間中,本件留学規程に基づいて現地滞在費等の支給を受けたこと,被告は,帰国後,原告の株式先物・オプション部に配属され,サスケハンナ社と原告の合弁事業にチームを組んで参加し,原告の命により,サスケハンナ社の金融,特にデリバティブに関するノウハウ,知識を習得するよう努め,合弁事業解消後も前記チームでデリバティブ取引による自己売買業務に従事したことが認められ,被告は,業務命令として海外に留学派遣を命じられ,原告の業務に関連のある学科を専攻し,勤務している場合に準じた待遇を受けていたものというべきである。原告は,被告に右の留学費用の返還条項を内容とする念書その他の合意書を作成させることなく,本件留学規程が就業規則であるとして就業規則の効力に基づき,留学費用の返還を請求しているが,このことも被告の留学の業務性を裏付けるものといえる。
右に基づいて考えると,本件留学規程のうち,留学終了後五年以内に自己都合により退職したときは原則として留学に要した費用を全額返還させる旨の規定は,海外留学後の原告への勤務を確保することを目的とし,留学終了後五年以内に自己都合により退職する者に対する制裁の実質を有するから,労働基準法一六条に違反し,無効であると解するのが相当である。」
東京地判平成14.4.16労判827号40頁(野村証券事件)抜粋
「そこで,上記認定事実及び前記争いのない事実等に基づいて判断する。
本件留学は勤続年数が短いにもかかわらず将来を嘱望される人材に多額の費用をかけて長期の海外留学をさせるという場合に該当する。
本件海外留学決定の経緯を見るに,被告は人間の幅を広げたいといった個人的な目的で海外留学を強く希望していたこと,派遣要綱上も留学を志望し選考に応募することが前提とされていること,面談でも本人に留学希望を確認していること,被告には健康状態の問題など,本件合意の時点で留学を断念する選択肢もあったのに,被告は留学したいとの気持ちが強く本件留学を決定したこと,G入学及びその入学までの語学学習の方法は被告の強い意向によること,が認められる。これによれば,仮に本件留学が形式的には業務命令の形であったとしても,その実態としては被告個人の意向による部分が大きく,最終的に被告が自身の健康状態,本件誓約書の内容,将来の見通しを勘案して留学を決定したものと推認できる。
また,留学先での科目の選択や留学中の生活については,被告の自由に任せられ,脱退原告が干渉することはなかったのであるから,その間の行動に関しては全て被告自身が個人として利益を享受する関係にある。実際にも被告は獲得した経験や資格によりその後の転職が容易になるという形で現実に利益を得ている。
他方,脱退原告の留学生選定においては勤務成績も考慮すること,脱退原告は被告に対し留学地域としてフランス語圏を指定し,ビジネス・スクールを中心として受験を勧め,それにはフランス語圏が重要な地域であること等,中長期的に基幹的な部署に配置することのできる人材を養成するという会社の方針があることが認められる。しかし,これらは派遣要綱1条の目的に従ったものと見ることができ,あくまでも将来の人材育成という範囲を出ず,そうであれば業務との関連性は抽象的,間接的なものに止まるといえる。したがって,本件留学は業務とは直接の関連性がなく労働者個人の一般的な能力を高め個人の利益となる性質を有するものといえる。
その他,費用債務免除までの期間などを考慮すると,本件合意は脱退原告から被告に対する貸付たる実質を有し,被告の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものではなく,労働基準法16条に違反しないといえる。
なお,新要綱では費用の一部の貸与に止まること,米国留学に比べてフランス留学が費用がかさむことは認められるが,それによって本件合意が全体として違法なものとなるとは解することはできず,本訴請求の範囲では正当なものというべきである。その他,被告の主張はいずれも採用できない。」
東京地判平成16.1.26労判827号46頁(明治生命保険事件)抜粋
「(1)会社が負担した海外留学費用を一定期間内に労働者が退社することで返還を求める旨の合意が労働基準法一六条ないし一四条違反となるか否かは,それが損害賠償額の予定又は違約金と見なされ,退職の自由を不当に制限するものか否かによる。そして,業務遂行に必要な費用は,本来的に使用者が負担すべきものであって,一定期間内に労働者が退職した場合にこれを労働者に負担させる旨の合意は,それが消費貸借合意であったとしても,実質的に違約金ないし損害賠償額の予定と認められるから,会社が費用を負担した海外留学が業務性を有し使用者がその費用を負担すべき場合には,留学費用についての消費貸借合意は,労働基準法一六条ないし一四条に違反するものとして無効となるというべきである。
(2)本件についてみるに,本件留学制度に応募するか否かは,労働者の自由意思に委ねられており,上司の推薦によるものでも,業務命令によるものではなく,大学に合格し留学が決まれば業務命令として留学を命じられるが,選抜された段階で本人が辞退すれば本人の意思に反して派遣されることはないこと(1(1)(2)),派遣先,留学先は,一定範囲の大学に制限されるが,その中から労働者が自由に選択でき,被告も自由に選択したこと(1(2)(4)),研究テーマ,研修テーマ,留学先での科目選択は,労働者の自由であり,被告も自由に選択したこと(1(9)),留学中,毎月研修予定研修状況等について簡単な報告書を提出することが義務づけられているが,それ以外に原告の業務に直接関連のある課題や報告を課せられることはなく,長期休暇の利用にも制約はなかったことが認められる(1(7))。そして,MBA課程の履修内容は,原告の業務に関連性があり,原告において被告が留学前後に担当した職務に直接具体的に役立つものがほとんどであるが,原告の業務に直接には役立つとはいえない経済学や基礎数学等の基礎的,概念的学科も含まれる上,国際標準による会計学,財務分析等について,豊富な分量の文献を履修者に読ませて講義を行うとともに,多様なケーススタディによる教育を行うもので,原告の業務には直接的には相当過剰な程度に汎用的な経営能力の開発を目指すものである(1(9)(10))。また,MBA資格そのものは,被告の原告における担当職務に必要なものではない。他方,被告にとっては有益な経験,資格であり,原告以外でも通用する経験利益を得られる(1(9))。
(3)そうすると,被告の留学は業務性を有するとはいえないから,本来的に使用者がその費用を負担すべきものとはいえず,被告の留学費用を目的とした消費貸借合意は,実質的に違約金ないし損害賠償の予定であるということはできず,労働基準法一六条ないし一四条に反するとはいえない。」