公務員の退職願の撤回
行政|公務員と地方公共団体の法的関係|処分に対する手続的保証|広島地裁昭和60年4月25日判決|徳島地判平成15年12月16日|名古屋地判平成2年5月28日労働判例577号62頁
目次
質問:
私は,5年ほど前から市役所で働いている地方公務員です。3日ほど前,上司と喧嘩をして,怒りにまかせて役所の中にあるコピー機を壊してしまいました。
壊してしまった次の日,弁償をしたうえで謝罪をしたのですが,謝罪は受け入れてもらえず,上役から自主退職をするよう求められました。決して許してもらえない雰囲気でしたので,その場で退職願に署名・押印をして提出をしてしまいました。
しかし,家に帰って冷静になって考えましたが,やはり生活もありますので市役所で勤務を続けていきたいのです。今更なのですが,この仕事を続けることはできますでしょうか。
一度退職願を提出して,相手に受け取られてしまうと,もう撤回はできないと聞いたこともありますので,心配です。
そもそも,今回の件が退職相当であるか,今後,具体的にどうすればよいか,という点と併せて教えてください。
回答:
1 今の段階であれば,退職願の撤回は間に合う可能性が高いといえます。
ただ,時間が経ってしまうと,撤回が認められないことがありますので,できる限り早い段階で,明確に撤回の意思表示を書面ですることが重要です。
2 ただ,退職の撤回をしただけでは不十分です。退職の撤回をした時点で,改めて懲戒処分の対象となるからです。
本件の事情からすれば,懲戒免職処分を受ける可能性は高くはありませんが,免職のリスクを回避し,また可能な限り懲戒処分の程度を軽減するため,あなたに有利な事情を十分にまとめて,懲戒権者に働きかける必要があります。
具体的な手続としては,①具体的な処分対象事実を確認した上で,②あなたに有利な事情を意見書等にまとめて,③懲戒権者に提出する,ということになります。場合によっては聴聞の機会を求めることも考えられるところです。
いずれにしても,あなたの場合,本件において自主退職をすることは,あまりに不利益が大きいと言わざるを得ません。退職願の撤回が間に合ううちに,行動を始めるべきです。
上記の流れや見通しは,具体的な事情によっても変わってくるところですので,可能な限り早く経験のある弁護士に相談されることをお勧めいたします。
3 退職願の撤回に関する関連事例集参照。
解説:
1 はじめに
本件は,大きく,①すでに提出してしまった退職願の撤回が認められるか,②認められたとして,懲戒処分はどのようなものになるのか,という問題に分けることができます。
そこで,以下では,これらを順に説明したうえで,③本件で懲戒処分を軽減する(懲戒免職を回避し,より軽微な処分にとどめる)ために採るべき対応についても,ご説明します。
2 退職の撤回について
(1)「退職の意思表示」の法的性質
ア いわゆる民間企業の場合,使用者と被用者(労働者)との関係は,いわゆる労働契約(労働契約法6条)に基づくものです。2者間の契約である,ということから考えると,労働者が使用者に対して退職願を提出するということは,この労働契約の(合意)解約の申し入れか解除の意思表示のいずれかを意味する,ということになります。
ここで,退職願の提出を,労働契約の解約申し入れであると考えた場合は,使用者の承諾があって初めて労働契約が終了することになりますし,労働契約の解除の意思表示(辞職)であると考えた場合は,使用者の承諾を要せず当然に労働契約は終了となります。
退職願の提出が①と②のいずれと判断されるか,という点については,提出までの経緯や,書面の内容,使用者とのやり取り等を総合的考慮したうえで基本的には①と判断される,とするのが裁判例(下記参照裁判例①及び②)です。これは,労働者の生活基盤である職を失わせる結果については,できる限り慎重にその効力について判断することで,労働者の権利を守る,という趣旨に基づくものであると考えられます。
なお,民間企業における退職の意思表示の撤回については,本ホームページ事例集1201番及び1328番に詳述しておりますので,ご参照ください。
イ 一方,あなたは市役所の職員であり,すなわち公務員ですので,民間企業における上記の考え方は当てはまりません。あなたのような公務員は,労働契約の締結ではなく,任命権者(地方公務員法6条)により任命されることで(地方)公務員となるからです(同法17条)。
この「任命」については,契約ではなく「特許」という行政行為であると通常考えられています。裁判例(徳島地判平成15年12月16日)にも「地方公共団体における職員の任用行為のうち採用行為は,公法的規律に服する公法上の勤務関係を新たに設定する行為であるから,その法的性質は,行政庁が公益目的のためになす行政行為(ただし,相手方の同意を要する。)と解するのが相当」であるとしたものがあります。
あくまでも任命権者による行政行為によって生じた関係である以上,契約とは異なり,公務員からの退職の意思表示によって一方的にその関係(公務員関係)が終了することはなく,退職の意思表示を受けた任命権者が(依願)免職処分をおこなって初めて公務員としての職を解かれる,ということになります。
なお,国家公務員の場合は,人事院規則によって,「任命権者は,職員から書面をもって辞職の申出があったときは,特に支障のない限り,これを承認するものとする。」と定められていてますが(人事院規則八―一二の51条),公務員の場合の辞職の申し出については任命権者の「承認」を要することを前提とした規定になっています。
(2)「退職願」の撤回
ア 上記を前提として,退職願を提出して退職の意思表示をした場合の撤回の可否について説明します。
まず,民間企業においては,退職願の提出が労働契約の解約申し入れであり,かつ解約について使用者の応答がない場合に,退職の意思表示の撤回が認められる,ということになります。
一方,公務員の場合は,上記のとおり任免のいずれも行政行為である以上,公務員からの退職願の提出が一方的な解除の意思表示であると解釈する余地がないため,任命権者の免職処分(免職辞令書の交付)がなされるまでは,撤回が可能,ということになります。
下記参考裁判例③も,同趣旨の判断をしています。ただし,参考裁判例③は,免職処分がなされるまで,いかなる場合も撤回を認めるのではなく,「免職辞令の交付前においても,退職願を撤回することが信義に反すると認められるような特段の事情がある場合には,その撤回は許されないものと解するのが相当である。」と撤回に制限をつけています。
ここでいう「信義に反すると認められるような特段の事情」ですが,同判例は,退職の意思表示に至った理由とその撤回に至った理由,そして撤回を受けた任免権者の不都合について総合的に検討しています。他の判例等からすると,任命権者側からの退職勧告を受けた退職の意思表示を撤回しているような場合には,基本的に信義に反しない,と判断する傾向にあるようです。
イ 撤回の方法については,参考判例③では口頭でもよい,と判示されていますが,参考判例④のように撤回と任命権者の免職処分との先後関係が問題になることもありますし,口頭での撤回と併せて確実を期するために書面(内容証明郵便等)でするべきです。
撤回の書面の提出先は任命権者となります。
なお,参考判例④は,免職処分は,口頭では足りず,辞令書の交付によって効力が生じる,と判示しています。
(3)本件における撤回の可否
本件の場合は,退職勧告も受けていますし,特に信義に反するような事情も存しないため,任命権者(地方公共団体の長)による免職処分(免職辞令書の交付)がなされる前であれば,提出してしまった退職願の撤回も原則として可能,ということになります。
参考判例④のように,退職を確実なものにするため,任命権者側が免職処分を急ぐようなケースもありますから,可能な限り早く撤回の意思表示をするべき,ということになります。
3 懲戒処分について
(1)本件における懲戒処分について
ア 本件行為について
仮に退職の意思表示の撤回に成功したとしても,それだけでは不十分です。
地方公務員法29条1項は,①地方公務員法もしくは同法57条に規定する特例を定めた法律又はこれに基づく条例,地方公共団体の規則もしくは地方公共団体の機関の定める規程に違反した場合,②職務上の義務に違反し,又は職務を怠った場合,③全体の奉仕者たるにふさわしくない非行があった場合のいずれかに該当することを要件として,戒告,減給,停職または免職の懲戒処分を科することができる,と定めているところ,コピー機を壊してしまったあなたの本件行為は,器物損壊(刑法261条)に該当するため,少なくとも③に該当しますし,公共の財産(公物といいます)を毀損するものとして,②にも該当しうるところです。
したがって,事実関係に相違がない限り,自主退職を勧められたことからして何らかの懲戒処分を受けることになってしまいます。
イ 懲戒処分に関する基準
具体的な懲戒処分に関する基準は各役所で異なりますが,公表されている処分の指針を参照すると大まかには,①処分対象行為の態様,生じた被害の大きさ,刑事処分等の社会的影響の程度,②処分対象者の地位,処分対象者の過失の程度及び職務や社会からの信用低下の程度,③処分対象者の日ごろの勤務態度,処分対象行為後の対応その他の事情(過去の処分歴等)の総合考慮,となります。
また,本件のような故意による公物毀損は,減給から停職を「標準例」としているところが多く認められます。
ウ 本件において予想される懲戒処分
上記のとおり,本件においては,減給から停職が予想される懲戒処分ということになります。したがって,やはり本件は一般的に懲戒免職相当ということはできず,自主的に退職することは在職を希望していたあなたにとって「もったいない」ということになります。
また,そもそも懲戒処分によって免職にできないからこそ,上役はあなたに対して自主的な退職(依願免職)を求めた,ということも考えられるところです。上記であげた人事院規則8-12の51条の,特に支障がない限り辞職を認める旨の規定における「支障」とは懲戒免職等の処分に付するべき相当の理由がある場合を指す,と考えられていることからも分かるとおり,そもそも懲戒免職相当であれば,基本的に自主的な退職を認めないからです。
なお,これはあくまでも一般的なケースです。あなたの場合も,詳しい経緯や理由,損壊の程度や損壊が公務に与えた影響,これまでのあなたの勤務態度等によっては,戒告になることもありますし,逆に懲戒免職相当と判断されることもありうるところです。
いずれにしても,本件において確実に懲戒免職を回避し,かつ最も軽い戒告処分を得るためには,単に退職願を撤回するだけでは不十分,ということになります。以下では,本件で採るべき具体的な対応を説明した上で,主張するべき事実を簡単に説明します。
(2)懲戒処分への対応について
ア 本件における具体的な対応
上記のとおり,口頭及び書面で退職の意思表示の撤回をおこない,これが認められた場合,撤回の事実を確実なものとするため,提出した退職願については返還を受けるべきです。
また,退職の撤回と並行して,まずは役所が把握している処分対象を確認,特定することが重要です。処分対象事実の特定については,やはり役所に確認することが最も確実です。
これを踏まえて,あなたにとって有利な事情を主張することになります。主張の方法としては,口頭及び書面で行うことになりますが,不利益な行政処分が科される前には,弁明の機会ないし聴聞の手続を採ることを定めている行政手続法13条は,同法3条1項9号によって地方公務員の身分に関する処分には適用がないことに注意が必要です。
そのため,条文上は,本件のような場合に,事前に弁明の機会を与える必要はない,ということになります。しかし,懲戒免職が予定されているような場合には聴聞の機会を与えるべきとした裁判例(甲府地判昭和52年3月31日判タ355号225頁)や,弁明の機会(聴聞の機会)が与えられることによって処分内容が変わる場合には,聴聞の機会を付与しなければならない(ものの内容が変わらないので聴聞のない当該処分でも有効)とした裁判例(名古屋高判平成20年2月20日判例地方自治307号65頁),憲法31条の趣旨に則って適正な手続の保証がされるべきであるから,原則として聴聞の機会が与えられるべき,と判断した裁判例(名古屋地判平成2年5月28日労働判例577号62頁)もあるため,少なくとも弁明の機会が与えられるように要求することが重要です。
加えて,条文上弁明の機会を与える必要がない,ということは,突然懲戒処分がなされてしまうことがある,ということですから,少なくとも,あなたの知らない間に懲戒処分がなされてしまわないように,その時期を役所に確認し,すくなくとも速やかに主張書面の提出をしなければなりません。
なお,万が一すでに懲戒処分がなされてしまい,長期間の停職や免職等の重いものであった場合には,60日以内に,不服申立てをすることになります(地方公務員法49条の2,同法49条の3)。
イ 本件において特に主張するべき内容
上記のとおり,懲戒処分の内容は,これまでの勤務態度等の様々な事情を総合的に考慮して判断されます。そのため,十分に有利な主張をするためには,事前に詳しい事情を確認しなければ,詳細については判断できないところです。
もっとも,本件のようなケースにおいては,①公物の損壊の程度や,それによって生じた公務への影響の程度が小さいこと,②器物損壊罪は親告罪であり(刑法264条),申告がされていない本件においては刑事処分の対象ではないこと,③すぐに謝罪し,弁償をしていることを中心に主張していくことになろうかと思います。
また,主張書面を提出する際には,弁償した際の領収書や,改めて事実関係をまとめて反省の意向を記載した反省文等を,資料として添付することも考えられるところです。
4 おわりに
以上のとおり,本件のようなケースでは,①依願免職処分がなされる前に退職の意思表示を撤回することと,②懲戒処分がなされる前に任命権者に対して有利な事情を主張することが重要ということになります。一刻も早い対応が必要となりますので,すぐにでも経験のある弁護士にご相談ください。
以上です。
3 なお,関連するものとして,1079番,1008番,1007番,947番,734番,657番,600番,538番も併せてご参照ください。
解説: