権利変換による再入居の説明を受けずに退去してしまった場合
民事|都市再開発法73条4項|マンション建替円滑化法58条2項|権利の存否に争いがある場合の処理
目次
質問:
居住用マンションを賃借して入居していましたが、大家から、ビルが老朽化して危険なので建て替えをするので退去してくれと言われ、どうせ退去になるから早めに退去した方が良いと言われ、先月、敷金全額返還と引越料だけの条件で退去してしまいました。しかし、その後、今回の建て替えは都市再開発法(マンション建替円滑化法)による権利変換の手続が予定されており、この法律には、賃借人保護の規定があり、建て替え後の建物に再入居できるということを知りました。それなら大家さんの説明が間違っているので、今から退去を撤回することはできませんか?知り合いに相談しましたが、「すでに退去しているので難しいのでは」と言われてしまいました。やはり難しいでしょうか。
回答:
1、都市再開発法とマンション建替円滑化法では、権利変換の仕組みが整備されており、借家人(借家権者)は、建て替え後の建物に賃借権(借家権)を取得することができるよう法律で保護されています。
2、しかし、賃借人であるご相談者様は、賃貸人から「ビルが老朽化して危険なので建て替えをするので退去してくれ」と請求され、「どうせ退去になる=最終的に残れない」と判断して退去に同意してしまったということですから、すでに建物賃貸契約は合意により解除され、権利変換の対象となる借家権は消滅してしまったと考えられます。但し、この退去(賃貸借契約を合意解除)の同意という意思表示が、民法の意思表示に関する、錯誤無効(民法95条)や、詐欺取消(民法96条1項)の規定によって保護されるかどうかは、大家さんの説明や具体的な事情によりますが、検討の余地はあります。
3、一般的に言って、詐欺や錯誤の主張は法的に困難な主張と言えますが、マンション建替円滑化法や、都市再開発法には、建物に関する権利の存否に争いがある場合は、当該権利が存在するものとして権利変換計画を定めなければならないとする規定もあります。至急これらの法令に詳しい弁護士事務所に相談し、権利主張の方法を協議なさると良いでしょう。
4、都市再開発法に関する関連事例集参照。
解説:
1、権利変換の仕組み(借家人の保護)
都市再開発法とマンション建替円滑化法では、円滑な建て替え事業遂行のために、権利変換手続が導入されています。権利変換手続は、再開発組合やマンション建て替え組合が権利変換計画を定めて地方自治体の認可を得た場合に、権利変換期日に従来の権利が全て消滅し、または組合に帰属することとなり、建物の新築工事を経て建てられた新建物について、権利変換計画に従い、従来の権利者が権利を取得するとされる手続です。
権利変換計画において、既存建物の借家権者の取り扱いは、新しい建物に借家権が与えられるように定めなければならないこととされています。
都市再開発法77条5項 権利変換計画においては、第七十一条第三項の申出をした者を除き、施行地区内の土地に権原に基づき建築物を所有する者から当該建築物について借家権の設定を受けている者(その者がさらに借家権を設定しているときは、その借家権の設定を受けた者)に対しては、第一項の規定により当該建築物の所有者に与えられることとなる施設建築物の一部について、借家権が与えられるように定めなければならない。ただし、当該建築物の所有者が第七十一条第一項の申出をしたときは、前項の規定により施行者に帰属することとなる施設建築物の一部について、借家権が与えられるように定めなければならない。マンション建替円滑化法60条4項 権利変換計画においては、第五十六条第三項の申出をした者を除き、施行マンションの区分所有者から施行マンションについて借家権の設定を受けている者(その者が更に借家権を設定しているときは、その借家権の設定を受けている者)に対しては、第一項の規定により当該施行マンションの区分所有者に与えられることとなる施行再建マンションの部分について、借家権が与えられるように定めなければならない。ただし、施行マンションの区分所有者が第五十六条第一項の申出をしたときは、前項の規定により施行者に帰属することとなる施行再建マンションの部分について、借家権が与えられるように定めなければならない。
つまり、都市再開発法やマンション建て替え円滑化法の手続により建物を建て替えする場合、借家権者は、一時的に退去することはあっても、後日建て替え後の建物に新たに賃借権を取得して入居することができるということになります。権利変換期日に、従来の建物に関する賃貸借契約は形式的に消滅することになりますが、権利変換手続により、新たな建物の借家権を取得することができますので、事実上、賃貸契約が存続し続けているのと同様に居住することができます。
2、建物賃貸借契約における引き渡しの意義
賃貸借契約は、賃貸人が賃借人にたして賃借物を使用収益させ、対価として賃料を取得する契約ですから、賃借人が賃借物を賃貸人に引き渡す、返還するということは賃貸借契約の終了を意味すると考えられます。通常は、賃貸借契約の解約の合意が成立してその後、賃借物を返還するという流れになるでしょうが、賃貸借契約解約の合意が明確ではなかったとしても、特段の理由がない限り、賃借物の返還がなされた場合は、賃借契約の解約合意が成立したと判断されるでしょう。
3、権利変換手続の説明を受けずに退去の合意をした場合
相談者様は、権利変換の仕組みを知らなかったので定額の立退料で退去に応じてしまったが、説明を受けていれば退去に応じなかったというお考えをお持ちということです。この場合、退去の合意に、意思表示の瑕疵(欠陥)があるとして、貸し主に対して、退去合意の無効や取消しを主張していくことが考えられます。
(1)錯誤無効の主張(民法95条)
民法95条 意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。
これは、主に内心的効果意思と表示との不一致を保護するための規定とされています。いわば「言い間違え」「書き間違え」を保護するための規定です。例えば、1本10円の鉛筆を「1本10万円」と表示した契約があった場合には、それは錯誤だから効力を生じないことにしましょう、ということです。
ここで「法律行為の要素」というのは、法律行為の主要部分であって、この点につき錯誤がなければ意思表示しなかったであろうと考えられるような部分と解釈されています(大審院大正7年10月3日判決)。
他方、今回の退去では、「権利変換の仕組みを知らなかったので退去してしまったが、知っていれば退去しなかった」というのですから、意思表示の動機(由縁)に錯誤があるということになります。意思表示そのものに錯誤はありませんので、民法95条で保護されるか問題となりますが、判例は、動機が表示されている場合は、動機が意思表示の内容となって錯誤が成立しうると解釈しています。更に、この表示は黙示的なものでも構わないとされています。黙示的というのは、意思表示そのものに表示されていなくても、様々な周辺事情から読み取ることができるという意味です。
最高裁判所平成元年9月14日判決「意思表示の動機の錯誤が法律行為の要素の錯誤としてその無効をきたすためには、その動機が相手方に表示されて法律行為の内容となり、もし錯誤がなかったならば表意者がその意思表示をしなかったであろうと認められる場合であることを要するところ(最高裁昭和二七年(オ)第九三八号同二九年一一月二六日第二小法廷判決・民集八巻一一号二〇八七頁、昭和四四年(オ)第八二九号同四五年五月二九日第二小法廷判決・裁判集民事九九号二七三頁参照)、右動機が黙示的に表示されているときであっても、これが法律行為の内容となることを妨げるものではない。
本件についてこれをみると、所得税法三三条一項にいう「資産の譲渡」とは、有償無償を問わず資産を移転させる一切の行為をいうものであり、夫婦の一方の特有財産である資産を財産分与として他方に譲渡することが右「資産の譲渡」に当たり、譲渡所得を生ずるものであることは、当裁判所の判例(最高裁昭和四七年(行ツ)第四号同五〇年五月二七日第三小法廷判決・民集二九巻五号六四一頁、昭和五一年(行ツ)第二七号同五三年二月一六日第一小法廷判決・裁判集民事一二三号七一頁)とするところであり、離婚に伴う財産分与として夫婦の一方がその特有財産である不動産を他方に譲渡した場合には、分与者に譲渡所得を生じたものとして課税されることとなる。したがって、前示事実関係からすると、本件財産分与契約の際、少なくとも上告人において右の点を誤解していたものというほかはないが、上告人は、その際、財産分与を受ける被上告人に課税されることを心配してこれを気遣う発言をしたというのであり、記録によれば、被上告人も、自己に課税されるものと理解していたことが窺われる。そうとすれば、上告人において、右財産分与に伴う課税の点を重視していたのみならず、他に特段の事情がない限り、自己に課税されないことを当然の前提とし、かつ、その旨を黙示的には表示していたものといわざるをえない。」
この判例では、離婚の際の財産分与では不動産の譲渡所得税が掛からないものと誤解して譲渡した事案で、譲渡所得税が掛からないと思っていた動機が黙示に表示され要素の錯誤として、錯誤無効の対象となり得ると判示しています。譲渡所得税は短期譲渡と長期譲渡がありますが最高税率は30%ですし、取得費の資料が無い場合は取得費を譲渡価格(譲渡時の時価)の5%として、つまり譲渡所得が95%であるとして計算することとされていますから、最高で不動産価格の3割程度の税金が課税されることになりますから、譲り受けた資産の最高で3割の税金が掛かるかどうかを誤解していた事案となります。
今回の退去に際して、前記判例で動機の錯誤が認められた3割前後の損失に比肩しうるような大きな損失や誤解があるかどうかがポイントになります。賃貸物件を退去して転居した場合と、転居せずに居住を続ける場合とで、大きな経済的差異を生じるかどうかが問題となります。資料によって、相談者様の損失が大きいことを立証していくことになります。合意解除により喪失した借家権の財産的評価である借家権価格の鑑定が一つの参考資料になります。合意退去した際に実際に受領した退去費用の金額と、借家権価格の見積もり額との差額が大きければ、動機の錯誤が認められやすくなると言えます。
(2)詐欺取消の主張(民法96条1項)
民法96条1項 詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。
これは、
(あ)相手方の欺罔行為があり
(い)これによる因果関係により表意者が錯誤に陥り
(う)欺されなければしなかった意思表示をした
場合に、意思表示の取消をすることができるというものです。内容証明通知書で意思表示の取消を通知し、相手方が取消を認めない場合は訴訟提起して原状回復を求めることになります。
詐欺の典型事例は犯罪となるような金銭を騙し取る詐欺行為ですが、通常の取引行為であっても、当事者間で不適切な説明行為などがあった場合には主張されることがあります。今回は、都市再開発法(またはマンション建て替え円滑化法)の権利変換手続により建て替え後の新築建物に再入居できることを知らずに、大家からの誤った説明により賃貸借契約を合意解除するしかないと思い込まされ、契約の合意解除に同意してしまい、退去もしてしまったということですが、大家の説明不足が欺罔行為と言えるか、大家に権利変換に関する説明義務があるか、大家の行為と意思表示の因果関係認められるか、検討が必要になります。
これらの要件については具体的な事実関係により結論が異なることになるでしょうが、更に、賃借権が存続した場合の利益と、退去してしまった場合の損失を比較して、退去による経済的損失が著しく大きいということであれば、「権利変換の仕組みについて相当な説明を受けていれば退去しなかった」と認められる可能性はあるでしょう。民法96条1項に基づき、合意解除の意思表示を取消する通知を貸し主に行ってみる価値はあるかと考えられます。通知後、当事者間で協議し、話がまとまらない場合は、民事訴訟を提起して賃借権の確認を求めていくことになります。
4、権利の存否に争いがある場合の処理
今回の様に既に賃貸物件を退去してしまった場合でも、錯誤無効(民法95条)や、詐欺取消(民法96条1項)を主張し、当事者間で、賃借権の存否について争いとなっている場合の処理について、都市再開発法やマンション建て替え円滑化法では、次のように規定しています。
都市再開発法73条4項 宅地又は建築物に関する権利に関して争いがある場合において、その権利の存否又は帰属が確定しないときは、当該権利が存するものとして、又は当該権利が現在の名義人に属するものとして権利変換計画を定めなければならない。ただし、借地権以外の宅地を使用し、又は収益する権利の存否が確定しない場合にあつては、その宅地の所有者に対しては、当該権利が存しないものとして、その者に与える施設建築物の一部等を定めなければならない。マンション建替円滑化法58条2項 施行マンションに関する権利若しくはその敷地利用権又は隣接施行敷地の所有権若しくは借地権に関して争いがある場合において、その権利の存否又は帰属が確定しないときは、当該権利が存するものとして、又は当該権利が現在の名義人(当該名義人に対して第十五条第一項(第三十四条第四項において準用する場合を含む。)若しくは第六十四条第一項(第六十六条において準用する場合を含む。)又は区分所有法第六十三条第四項(区分所有法第七十条第四項において準用する場合を含む。)の規定による請求があった場合においては、当該請求をした者)に属するものとして権利変換計画を定めなければならない。
つまり、建て替えする建物の借家権の存否について争いがある場合(双方の主張に食い違いがみられる場合)には、当該権利(借家権)が存在するものとして権利変換計画を定めるべきことが規定されています。御相談者様の借家権も権利変換計画の対象とされることになります。このとき、目的建物について引き渡しを受けていない賃借人でも、再開発組合または建て替え組合に対して、「賃借権の存否について争いがある」旨を主張できると考えるべきでしょう。都市再開発法73条4項や、マンション建替円滑化法58条2項の主張は、第三者に対して賃借権の存在を主張することではなく、「賃借権の存否に争いがあること」を主張しているに過ぎないからです。
借家権の存在を主張している借家人である御相談者様としては、「借家権の存否について争いが存在している事実」を、再開発組合や準備組合、建替組合や、準備組合に対して通知することが必要です。内容証明郵便で通知しましょう。この際、紛争の内容について弁護士から説明し、都市再開発法73条4項や、マンション建替円滑化法58条2項に基づいて、権利変換計画に借家人の権利を記載すべきことを求める通知を行うと良いでしょう。「争いがある場合」の解釈が問題となる可能性がありますので、できれば、簡易裁判所の宅地建物調停(民事調停法24条)や、地方裁判所で賃借権確認訴訟が係属していることが望ましいでしょう。可能であれば、これら事件の事件番号も通知書に記載すると良いでしょう。主張方法や手続方法について不安がある場合は、経験のある弁護士事務所に御相談なさり、早急に手続なさることをお勧め致します。
以上