生前贈与と相続
民事|差押え債権の拡張|民執法153条1項|東京高決平成22年6月22日
目次
質問:
先日,父が亡くなりました。父は亡くなる1年前に,私の兄に父の遺産の全てを相続させる内容の遺言書を残しておりました。その代わりとして,私には2000万円を贈与する約束を生前してくれ,その約束は誓約書という形で書面に残っています。誓約書の作成は遺言書作成の10日後でした。ところが,急性心筋梗塞で突然倒れたことから,その履行を受けないうちに逝去してしまったのです。
母は既に他界していることから,相続人は私と兄の2人です。
父の葬式も済んだことから,思い切って兄に生前贈与の話をし,2000万円を支払ってもらえないか打診をしてみたのですが,そのような紙切れは父の真意で書いたものではない,どうせ脅して書かせたのだろう,父の日記にもそのような趣旨の記載があった,などと言って取り合ってもらえず,現在まで支払われておりません。
今後私はどうすれば良いのでしょうか。
回答:
1 相続債務のうち金銭債務その他の可分債務は法律上当然に分割され,各法定相続人がその法定相続分に応じてこれを分割承継するものとされています(最判昭和34年6月19日民集13巻6号757頁)。
ただし,相続人のうちの1人に対して財産全部を相続させる旨の遺言により相続分の全部が当該相続人に指定された場合,遺言の趣旨等から相続債務については当該相続人にすべてを相続させる意思のないことが明らかであるなどの特段の事情のない限り,当該相続人に相続債務もすべて相続させる旨の意思表示があったものと考えるべき,というのが判例の立場です(最判平成21年3月24日民集63巻3号427頁)。
本件では,被相続人であるお父様がお兄様に遺産の全てを相続させる旨の遺言書を遺されており,債務についてはお兄様に全てを相続させる意思がないということが読み取れるような事情もないことから,お兄様に贈与金を全額請求できると考えるのが自然でしょう。
2 その上で,お兄様に対して書面で贈与金の請求を行いましょう。後々の裁判手続きを見据え,請求を行った事実を証拠化するために,内容証明郵便等の形式で送付するのが望ましいです。なお,お父様の遺産総額(持ち戻しの対象となる生前贈与含む)との関係で,2000万円という金額があなたの遺留分(全体の4分の1)を下回る場合は,同時に遺留分減殺請求を行う意思を明記するべきです。ただし,遺留分減殺請求は1年で時効消滅しますので,留意が必要です。
3 お兄様に書面で請求を行っても任意に履行をしてくれない場合は,法的手続きを検討する他ないことになります。
手段としては,調停や訴訟が考えられますが,お兄様の態度からすれば,調停での解決に資する事案とは思えず,基本的には,訴訟提起を見据えておく必要があろうかと思います。
また,執行逃れを未然に防止するために,あなたが把握しているお兄様の財産について仮差押えをすることも検討すべきです。
4 訴訟になった際にお兄様から予想される反論として,お父様の贈与の意思表示はあなたの脅迫に基づくものであるから,取り消しの対象となる(民法96条1項)という主張が想定されます。
脅迫の立証というのは,そう簡単に認められるものではないですが,お父様の日記に脅迫をされたという趣旨の記載があれば,ある程度立証材料をお兄様が有していることになりますので,こちらは脅迫の事実を阻害するような事情をなるべく多く主張・立証する必要があるでしょう。
5 お兄様との間で話し合いをしても事態が進展しない状況にありますので,ここから先は弁護士に全て委任するというのも一つの考えです。内容証明の作成,仮差押え,訴訟といった手続きを全てお一人で進めるのは現実的には難しいと思われます。
4 生前贈与に関する関連事例集参照。
解説:
第1 相続開始に伴う権利義務の承継について
1 原則論
相続人は,相続開始の時から,被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継します(民法896 条)。権利義務という表現から分かるとおり,プラスの財産のみならずマイナスの財産(債務)も承継することになります。
相続人が複数存在する場合に,どのようにして権利義務の承継が決まるかと言うと,原則として,遺言書があればその内容にしたがい(ただし,遺留分を侵害する場合は別。この点は後述。),遺言書がなければ各共同相続人が遺産分割協議(民法906条)を行って,分割方法を決めることになります。
2 可分債権の取扱い
なお,預金債権等の可分債権について,最高裁判所は,「相続人数人ある場合において,その相続財産中に金銭その他の可分債権あるときは,その債権は法律上当然分割され各共同相続人がその相続分に応じて権利を承継するものと解するを相当とする」(参考判例①:最判昭和29年4月8日民集8巻4号819頁)との見解を採用し,最判平成16年4月20日判時1859号61頁(参考判例②)でもその立場が踏襲されましたが,その後預金債権については,最大決平成28年12月19日民集70巻8号2121頁(参考判例③)により判例変更されるに至っております。
同決定は,「共同相続された普通預金債権,通常貯金債権及び定期貯金債権は,いずれも,相続開始と同時に当然に相続分に応じて分割されることはなく,遺産分割の対象となるものと解するのが相当である。」と判示し,少なくとも預金債権については遺産分割の対象となることが明示されました。
この点,従前より銀行実務では,遺産分割協議書あるいは相続人全員の同意書等の提示がなければ払い戻しに応じない運用がされており,また遺産分割調停の実務でも,相続人間の同意のもと,預金も遺産分割協議の対象とすることが頻繁に行われてきました。そのため,今回の判例変更は実務上の扱いに整合する形をとったものに過ぎないという見方が出来ます。
いずれにしましても,遺言書がなければ,預金債権の分配は遺産分割協議によって決することになります。
3 可分債務の取扱いと本件について
(1) 被相続人の債務が分割することのできない不可分債務の場合,遺産分割協議で承継を決することになりますが,遺産分割成立までの間は相続人が共同で承継したことになるので,遺産分割協議未了の間に債権者から請求を受けた場合,相続人各自が債務の全部を履行する義務を負うことになります(民法430 条,432 条)。
これに対し,相続債務のうち金銭債務その他の可分債務は法律上当然に分割され,各法定相続人がその法定相続分に応じてこれを分割承継する,というのが最高裁判所の立場です(参考判例④:最判昭和34年6月19日民集13巻6号757頁)。
ただし,その後「相続人のうちの1人に対して財産全部を相続させる旨の遺言により相続分の全部が当該相続人に指定された場合,遺言の趣旨等から相続債務については当該相続人にすべてを相続させる意思のないことが明らかであるなどの特段の事情のない限り,当該相続人に相続債務もすべて相続させる旨の意思が表示されたものと解すべきであり,これにより,相続人間においては,当該相続人が指定相続分の割合に応じて相続債務をすべて承継することになると解するのが相当」との判示がなされ(参考判例⑤:最判平成21年3月24日民集63巻3号427頁),特定の相続人1人に全てを相続させる趣旨の遺言が存在する場合は,基本的にその者が債務も全て承継するという例外が示されました。
(2) 本件では,贈与金債務が問題となっており,これは可分債務です。被相続人であるお父様はお兄様に遺産の全てを相続させる旨の遺言を遺されておりますが,債務についてはお兄様に全てを相続させるつもりがない,ということが読み取れるような事情もないことから,お兄様に贈与金を全額請求できると考えるのが自然でしょう。
第2 遺留分が侵害されていないかの確認
1 次に,お父様の遺言があなたの遺留分を侵害していないかどうか,念のため確認をしておくべきでしょう。
遺留分とは,一定の範囲の法定相続人に認められる,最低限の遺産取得分のことです。遺留分を侵害されている相続人は,遺留分を侵害している受遺者や受贈者に対してその侵害額を請求することができます(民法1031条)。
なお,本件遺言の内容は「お兄様に財産を全て相続させる」というもので,いわゆる遺産分割方法の指定と解されます(参考判例⑥:最判平成3年4月19日民集45巻4号477頁)。民法には遺贈と生前(死因)贈与しか遺留分減殺の対象が規定されていませんが(民法1031条),遺産分割方法の指定について区別する理由がないことから,遺言書による遺産分割方法の指定が遺留分を侵害する場合も減殺請求は可能です(上記判例参照)。
2 遺留分算定の基礎となる財産は,被相続人が相続開始時に有していた財産の価額に,贈与財産の価額を加え(持ち戻し),最後に相続債務を控除して算出します(民法1029条1項)。持ち戻しの対象となる生前贈与は,相続開始前1年以内の贈与に限定されるのが原則ですが,特別受益にあたる生前贈与は例外的に1年以上前のものであっても持ち戻しの対象となります(民法1044条,903条)。
あなたの遺留分割合は4分の1ですので(民法1028条2号),持ち戻しの計算と債務の控除を行った上で,2000万円が全体に占める割合が4分の1を下回っていた場合は,お兄様に対して足りない部分も請求できることになります。
遺留分減殺請求は1年で時効消滅しますので(民法1042条前段),留意が必要です。
3 また、後日2000万円の贈与が否認されて認められなかった場合、全部の財産をお兄様に相続させるという遺言は遺留分を侵害していることになりますから、念のため遺留分減殺請求をしておくことが必要になります。
遺留分減殺請求の消滅時効は減殺すべき遺言を知った時から進行しますから、2000万円の贈与が有効と信じていれば時効は進行しないと考えられますが、確実を期すためには遺留分減殺の意思を死亡後1年以内にしておいた方が良いでしょう。
第3 お兄様から贈与金を回収するための方策
1 任意の交渉
まずはお兄様に対して書面で贈与金の請求を行うことになります。後々の裁判手続きを見据え,請求を行った事実を証拠化するために,内容証明郵便等の形式で送付するのが望ましいでしょう。
なお,遺留分が侵害されている場合は,減殺請求を行う旨も書き加えておくべきです。
2 調停
お兄様に書面で請求を行っても任意に履行をしてくれない場合は,法的手続きを検討する他ないことになります。
手段としては,調停や訴訟が考えられます。親族ということもあり,まずは話し合いの手続きとしての調停から始めてみる,という選択もあり得るとは思いますが,調停の相手方は出頭するかどうか自由に選択出来てしまいますし,あくまでも話し合いの手続きなので,お兄様が嫌だと言えばそれ以上話は進まず,不調という形で終わってしまう可能性も十分に想定されます。
3 訴訟と仮差押え
そのため,基本的には,訴訟提起を見据えておく必要があろうかと思います。
また,仮にあなたが勝訴判決を得たとしても,お兄様が任意に支払わなければ,こちらから更に強制執行の申立てを行って,お兄様の財産から強制的に2000万円を回収するという面倒な手続きを採らなければなりません。そして,お兄様が執行の対象となり得る不動産をあらかじめ第三者に売却してしまったり,預金を引き出してしまったりしてしまうことも考えられないわけではありません。
かかる執行逃れのような事態を未然に防止するためには,あなたが把握しているお兄様の財産について仮差押えをしてしまう(処分禁止の仮処分命令の申立て),という手段があります(民事保全法23条1項,)。一定の担保金を預ける必要はありますが(民事保全法14条1項。たとえば,不動産の場合は固定資産評価額の15~30パーセント程度。),最悪の事態に備えて,検討することをお勧めします。仮差押えを受けた債務者が,慌てて任意に債務を履行してくることもしばしばありますし(その場合,訴訟も不要となるので手間も少なくなります。),まさに仮差押えが有効な事案ということが出来るでしょう。
なお,仮処分決定を得るためには,保全すべき権利又は権利関係及び保全の必要性を疎明しなければなりません(民事保全法13条2項)。本件では誓約書という客観的証拠が存在するため,被保全権利の疎明は比較的容易と思われますし,お兄様の態度からすれば必要性の疎明も十分に出来るでしょう。
第4 訴訟上で想定される反論と立証活動
1 お兄様のあなたに対する発言を前提とすると,訴訟になった際にお兄様から予想される反論として,お父様の贈与の意思表示はあなたの脅迫に基づくものであるから,取り消しの対象となる(民法96条1項)という主張が想定されます。
脅迫の立証というのは,そう簡単に認められるものではないですが,お父様の日記に脅迫をされたという趣旨の記載があれば,ある程度立証材料をお兄様が有していることになりますので,こちらは脅迫の事実を阻害するような事情をなるべく多く主張・立証する必要があるでしょう。
2 具体的には,脅迫を基礎付ける証拠が不足していることを指摘して当該事実を否認すると同時に,以下の間接事実を積み上げて,お父様が自ら進んで任意に誓約書を書いたというストーリーの合理性を基礎付ける活動が必要となります。
① 全体の財産に占める割合からして贈与が不合理とは言えない事実
お父様の遺産に占める割合という観点から,お兄様の方があなたより多くの遺産を取得していたり,あるいは同じくらいの金額であったならば,贈与が不合理とは言えません。かかる事情は,お父様の真意に基づいて誓約書が書かれたというストーリーの合理性を基礎付ける事情となります。
反対に,全体の財産が2500万円程度しかないということになると,あなたに多くの財産を生前に遺そうとしたことの合理性を説明できなければ(たとえば,介護を中心に行った,仕送りをしていた,お父様がお兄様に生活資金の援助をたくさん行っていた等),脅迫を加えたことがある程度推認されてしまいます(必ずしも強い推認とは言えませんが)。
② 誓約書の文字がしっかりしている事実
脅迫を受けたのであれば,恐怖心から文字が震えたりするものです。そういった不自然さが全くなく,しっかりとした文字・文章で書かれているのであれば,脅迫の事実を否定する方向の事情となり得ます。
③ お父様との関係性
お父様の生前,関係性が良好であった事実は,脅迫の事実を否定する方向の事情となります。また,お父様の介護を献身的に行った事実や仕送りをした事実等もあれば,それも贈与が真意に基づくことを基礎付ける方向に働きますので,主張すべきです。
3 また,以上に加え,お父様の手書きの日記が証拠として出された場合は,当該日記の筆跡に疑問があればその成立の真正自体を争い,筆跡が異なる可能性があるという疑いを持たせるために,他の手書きメモの証拠提出を検討すべきでしょう。
第5 まとめ
以上のとおり,最終的には訴訟に至る可能性も十分に想定されますので,仮差押えも含め,お一人で全て追行するのは困難な面が大きいです。
専門家である弁護士に手続きを依頼されるのも一つの手です。
以上