再開発の明け渡し後の敷金返還請求手続
都市再開発|最高裁判所平成10年9月3日判決
目次
質問
再開発区域内のマンションを賃借しており、先日、再開発組合から補償金を受領して退去しました。賃借権は継続の扱いにして頂きましたので、4年後に新築ビルに戻って来る予定になっています。賃貸契約で敷金は2ヶ月分が差し入れられており、退去後に貸主に敷金の返還請求を求めたところ「再入居だから新しい賃貸契約に引き継がれるので返還の必要は無い。返すとしても半額償却されるので半額である。」という回答でした。
大家さんの主張は法的に正しい主張でしょうか。敷金が全額戻って来ることを当てにしていたので困っております。
回答
1 物件退去後に返却する敷金・保証金の一部を償却する特約(一部返却しない旨を定める特約)のことを、「敷引特約」と言います。一般消費者の契約においては、これが消費者に一方的に不利な特約として無効ではないかと争われた裁判がありましたが、最高裁判所では、敷引額が高額であるなど特段の事情が無い限り有効であると判断するに至っています。
2 敷金返還債務の弁済期は、賃貸借契約終了後に物件を賃貸人に対して引き渡した後に到来するという裁判例が確立しています。しかし再開発手続の場合は、権利変換期日に従来の建物賃貸借契約は終了しますが、物件を明け渡す先は再開発組合であり、賃貸人に対して明け渡したわけでは無いので問題となり得ます。この点、確立した上級審判例はありませんが、下級審では組合に対する明け渡し後、賃貸人に対する催告時に敷金返還請求できるとする裁判例があります。御質問の「再入居だから新しい賃貸契約に引き継がれるので返還の必要は無い。」という大家さんの主張は法的には通らないことになります。再入居だからといって、再開発の場合は、従来の建物賃貸借契約とは全く別の建物賃貸借契約ですから、敷金が引き継がれるという大家さんの主張は誤りといえます。
3 また、賃貸借契約終了、返還の際、半額償却と契約書に記載されていたとしても、それは、通常の賃貸借契約の終了、建物返還の場合で、再開発のように法律上賃借権が消滅するような場合は、該当しないと考えられます。この点について再開発の場合の判例はありませんが、地震や火災などで、建物が消滅したことにより賃貸借契約が終了する場合は、敷金の償却はできないという最高裁の判例はあります。お困りの場合は弁護士に相談して請求する手続をして貰うと良いでしょう。
4 その他本件に関連する事例集はこちらをご覧ください。
解説
1 敷金・保証金の法的性質
建物賃貸借契約における「敷金」「保証金」は、法律上定められたものではありませんが、民法の賃貸借契約、借地借家法の建物賃貸借契約に付随する担保差し入れの特約であり、判例上も任意の特約として有効とされています(2020年4月施行の改正民法では敷金が法的に定義されました)。賃貸契約締結時に、借り主から貸し主に家賃の数ヶ月分の担保金を差し入れて預託し、退去後に返還するという合意をし、入居期間中の家賃滞納や、原状回復義務の不履行(賃貸物件の破損などを修理する費用)などを担保するための特約です。
改正民法第622条の2
第1項 賃貸人は、敷金(いかなる名目によるかを問わず、賃料債務その他の賃貸借に基づいて生ずる賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務を担保する目的で、賃借人が賃貸人に交付する金銭をいう。以下この条において同じ。)を受け取っている場合において、次に掲げるときは、賃借人に対し、その受け取った敷金の額から賃貸借に基づいて生じた賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務の額を控除した残額を返還しなければならない。
第一号 賃貸借が終了し、かつ、賃貸物の返還を受けたとき。
第二号 賃借人が適法に賃借権を譲り渡したとき。
第2項 賃貸人は、賃借人が賃貸借に基づいて生じた金銭の給付を目的とする債務を履行しないときは、敷金をその債務の弁済に充てることができる。この場合において、賃借人は、賃貸人に対し、敷金をその債務の弁済に充てることを請求することができない。
最高裁判所昭和44年7月17日判決
思うに、敷金は、賃貸借契約終了の際に賃借人の賃料債務不履行があるときは、その弁済として当然これに充当される性質のものであるから、建物賃貸借契約において該建物の所有権移転に伴い賃貸人たる地位に承継があつた場合には、旧賃貸人に差し入れられた敷金は、賃借人の旧賃貸人に対する未払賃料債務があればその弁済としてこれに当然充当され、その限度において敷金返還請求権は消滅し、残額についてのみその権利義務関係が新賃貸人に承継されるものと解すべきである。
2 敷引特約の有効性
物件退去後に返却する敷金・保証金の一部を償却して返却する特約(一部を返却せず賃貸人が取得してしまう特約)のことを「敷引特約」と言い、実務上広く締結されている特約です。消費者契約法施行後、一般消費者の契約においては、これが消費者契約法10条により消費者に一方的に不利な特約として無効になるのではないかと争われた裁判がありましたが、最高裁判所では、敷引額が高額であるなど特段の事情が無い限り有効であると判断するに至っています。
消費者契約法第10条(消費者の利益を一方的に害する条項の無効)
消費者の不作為をもって当該消費者が新たな消費者契約の申込み又はその承諾の意思表示をしたものとみなす条項その他の法令中の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比して消費者の権利を制限し又は消費者の義務を加重する消費者契約の条項であって、民法第一条第二項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するものは、無効とする。
最高裁判所平成23年3月24日判決
賃貸借契約に敷引特約が付され、賃貸人が取得することになる金員(いわゆる敷引金)の額について契約書に明示されている場合には、賃借人は、賃料の額に加え、敷引金の額についても明確に認識した上で契約を締結するのであって、賃借人の負担については明確に合意されている。そして、通常損耗等の補修費用は、賃料にこれを含ませてその回収が図られているのが通常だとしても、これに充てるべき金員を敷引金として授受する旨の合意が成立している場合には、その反面において、上記補修費用が含まれないものとして賃料の額が合意されているとみるのが相当であって、敷引特約によって賃借人が上記補修費用を二重に負担するということはできない。また、上記補修費用に充てるために賃貸人が取得する金員を具体的な一定の額とすることは、通常損耗等の補修の要否やその費用の額をめぐる紛争を防止するといった観点から、あながち不合理なものとはいえず、敷引特約が信義則に反して賃借人の利益を一方的に害するものであると直ちにいうことはできない。
もっとも、消費者契約である賃貸借契約においては、賃借人は、通常、自らが賃借する物件に生ずる通常損耗等の補修費用の額については十分な情報を有していない上、賃貸人との交渉によって敷引特約を排除することも困難であることからすると、敷引金の額が敷引特約の趣旨からみて高額に過ぎる場合には、賃貸人と賃借人との間に存する情報の質及び量並びに交渉力の格差を背景に、賃借人が一方的に不利益な負担を余儀なくされたものとみるべき場合が多いといえる。
そうすると、消費者契約である居住用建物の賃貸借契約に付された敷引特約は、当該建物に生ずる通常損耗等の補修費用として通常想定される額、賃料の額、礼金等他の一時金の授受の有無及びその額等に照らし、敷引金の額が高額に過ぎると評価すべきものである場合には、当該賃料が近傍同種の建物の賃料相場に比して大幅に低額であるなど特段の事情のない限り、信義則に反して消費者である賃借人の利益を一方的に害するものであって、消費者契約法10条により無効となると解するのが相当である。」
これを本件についてみると、本件特約は、契約締結から明渡しまでの経過年数に応じて18万円ないし34万円を本件保証金から控除するというものであって、本件敷引金の額が、契約の経過年数や本件建物の場所、専有面積等に照らし、本件建物に生ずる通常損耗等の補修費用として通常想定される額を大きく超えるものとまではいえない。また、本件契約における賃料は月額9万6000円であって、本件敷引金の額は、上記経過年数に応じて上記金額の2倍弱ないし3.5倍強にとどまっていることに加えて、上告人は、本件契約が更新される場合に1か月分の賃料相当額の更新料の支払義務を負うほかには、礼金等他の一時金を支払う義務を負っていない。
そうすると、本件敷引金の額が高額に過ぎると評価することはできず、本件特約が消費者契約法10条により無効であるということはできない。
この判例は、敷引特約が、退去後の通常損耗の補修費として通常想定される額の範囲内であれば、紛争防止のためにあらかじめ金額を定めて退去後に精算する趣旨として、あながち不合理とも言えず有効であると判断しています。そして、具体的事例として、敷引き額が家賃の2倍弱ないし3.5倍強にとどまる場合には、高額に過ぎると評価することはできず、消費者契約法10条が適用される条項ではないと判断しています。
3 再開発による退去時の敷金の処理と、敷引特約
前記判例は、通常の建物賃貸借契約の終了時の明け渡しに伴う敷金の処理を定めたものでした。つまり、賃貸借契約が終了し、賃借人が賃貸人(貸主、大家)に対して物件を明け渡し、賃貸人は物件補修を経て次の賃借人を募集するという流れが想定されている事案です。
しかし、本件のように再開発に伴う明け渡しの場合は、再開発組合が設立認可され、権利変換計画が認可されると、権利変換期日に「建物所有権が再開発組合に移転し」、「建物賃借権は消滅する」という法的処理になります。建物賃借人が明け渡しをする相手は、新しい建物所有者である市街地再開発組合になります。
再開発手続における建物賃借権の扱いは次のような流れになります。
- 権利変換計画書に、従来貸主の建物所有権の権利変換に付随し、従来借主が借家権を取得することとなる者として記載される(都市再開発法73条1項2号、4号、12号)。
- 権利変換期日に建物所有権が市街地再開発組合に移転し、建物賃借権は消滅する(都市再開発法87条2項)。
- 元賃借人は転居費用などの補償金を受領して再開発組合に対して物件を引き渡す(都市再開発法96条1項、97条1項)。
- 市街地再開発組合が建物を除却し、再開発ビルの新築工事を施工する。
- 新築工事が完了すると、市街地再開発組合は工事完了公告を行い、借家権を取得する者への個別の通知を行う(都市再開発法100条2項、)。賃借人は、従来の大家が取得する建物について、借家権を取得する(都市再開発法77条5項)。
- 新しい建物の賃貸契約の内容は、当事者の協議によるが(都市再開発法102条1項)、協議がまとまらない場合は、市街地再開発組合に対する裁定申し立てを行うことができ(同102条2項)、これに不服がある場合は、60日以内に賃料裁定変更請求訴訟を提起することができる(同102条6項)。
市街地再開発組合は、引き渡しを受けた後で当該建物を取り壊して再開発ビルを新築工事するのであり、前記のような「通常損耗を補修工事して次の賃借人を募集する」というような手順は予定されていないのです。
さらに、賃貸借契約でも、敷金や保証金についての規定は、通常の賃貸借関係を前提とした定め方になっており、都市再開発法の権利変換によって建物所有権が移転し、賃借権が消滅した場合の処理をどうするのか、想定されていない契約条項になっていることがほとんどです。
このような場合にどう考えるのか、参考になる判例がありますので御紹介致します。
最高裁判所平成10年9月3日判決(裁判所HP、全文PDF)
居住用の家屋の賃貸借における敷金につき、賃貸借契約終了時にそのうちの一定金額又は一定割合の金員(以下)「敷引金」という。)を返還しない旨のいわゆる敷引特約がされた場合において、災害により賃借家屋が滅失し、賃貸借契約が終了したときは、特段の事情がない限り、敷引特約を適用することはできず、賃貸人は賃借人に対し敷引金を返還すべきものと解するのが相当である。けだし、敷引金は個々の契約ごとに様々な性質を有するものであるが、いわゆる礼金として合意された場合のように当事者間に明確な合意が存する場合は別として、一般に、賃貸借契約が火災、震災、風水害その他の災害により当事者が予期していない時期に終了した場合についてまで敷引金を返還しないとの合意が成立していたと解することはできないから、他に敷引金の不返還を相当とするに足りる特段の事情がない限り、これを賃借人に返還すべきものであるからである。
これを本件について見ると、原審の適法に確定した事実関係によれば、本件賃貸借契約においては、阪神・淡路大震災のような災害によって契約が終了した場合であっても敷引金を返還しないことが明確に合意されているということはできず、その他敷引金の不返還を相当とするに足りる特段の事情も認められない。したがって、被上告人は敷引特約を適用することはできず、上告人は、被上告人に対し、敷引金の返還を求めることができるものというべきである。
この判例は、阪神淡路大震災による目的建物の滅失により建物賃貸借契約が終了したときには、敷引特約を適用することはできず、賃借人は賃貸人に対して敷金全額の返還を求めることができると判示しています。つまり、敷引き特約の締結時に想定されていた、「敷引金を賃貸物件の明け渡し後に賃貸人が原状回復工事を行う場合の費用に充てる」という前提が崩れてしまった場合には、敷引き特約を適用するのは適当ではないという考え方によるものです。
この判例では、「賃貸借契約が火災、震災、風水害その他の災害により当事者が予期していない時期に終了した場合」という例示を行っていますが、再開発の権利変換により借家権が消滅するということも、入居時に当事者が予期していた内容とは異なりますので、同様に考えることができると判断できる可能性があります。賃借人の立場では、当然、そのように主張し、敷引特約の不適用を主張し、敷金・保証金の全額返還を主張すべきでしょう。
この点について、どうしても大家側との協議がまとまらない場合は、簡易裁判所の宅地建物調停や、簡易裁判所や地方裁判所に、敷引金の返還請求の民事訴訟を提起する手段が考えられます。交渉で行き詰まってしまった場合などには、経験のある弁護士事務所に御相談なさり一緒に手続して貰うと良いでしょう。
以上