建物賃貸借契約終了後の賃借人の原状回復義務
民事|賃貸借契約における原状回復義務の意義|通常損耗の負担に関する特約の有効性|最高裁判所平成17年12月16日判決他
目次
質問
私はビルのテナントの部屋を長年の間、賃借して小さな洋服店をやっております。お客さんも増え、売り上げも伸びたので、今の店から新しい店に引っ越しをすることにしました。オーナーとは既に解約の合意も成立しており、建物内の荷物も撤去して明渡も済ませています。
オーナーは、改修費について、「内部も汚れているので内装をすべて塗り替える。その費用はあなたに出してもらう。契約書にも原状回復費用は賃借人の負担、と書いてある。」と言っています。
私としては、部屋を長年使っていれば汚れも出てくるのは当然で、こうした汚れの修復費用分は賃料の中に入っていると思います。私は、部屋の塗替え工事費などもすべて負担しなければいけないのでしょうか。
回答
1 賃貸借契約書に原状回復費用は賃借人の負担、と書いてあったとしても、原状回復費用とは、原則として、「通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損を復旧すること」であり、通常の使用による劣化、いわゆる経年劣化については、借りた当初の時点の状態に戻す費用は含まれないとされています。従って、今回の賃貸人の請求は認められません。
2 建物退去時において、通常の使用に伴う損耗の修理費用(以下「通常損耗費」)を賃貸人・賃借人いずれが負うか、合意があるのか、争われた判例があります。居住用建物に関する最高裁判所平成17年12月16日判決と、営業用建物に関する大阪高等裁判所平成18年5月23日判決です。
3 上記最高裁判決は、解説で詳しく紹介しますが、賃貸借契約書に「原状回復費用は賃借人の負担」という記載があった場合、「建物の賃借人にその賃貸借において生ずる通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは,賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから,」賃借人は通常損耗についての回復費用を負わないのが原則であり、「賃借人に同義務が認められるためには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか,通常損耗費を賃借人が負担する」ことが明らかでありかつ相当な場合に限定されるとしています。
4 原状回復に通常損耗は含まれないということになりますが、問題は、通常損耗についても賃借人が責任を負うということが明記されている契約書等がありその旨の合意が当事者間に成立している場合の扱いです。契約自由の原則から考えるとこのような約束をした以上は賃借人の責任が生じるようにも考えられます。しかし、契約締結時の賃借人の弱い立場を考えると場合、疑問があります。この点、そのような合意があっても消費者契約法により、消費者に不利益な条項として無効になる可能性があります。また、業者間の賃貸借では消費者契約法の適用はありません。結論は、具体的な事案によることになりますが、賃料が比較的に低廉であるとか、通常損耗について賃借人に負担させるのが合理的と判断される事情がある場合に限り、賃借人に負担させるという合意が有効になるものと考えられます。
5 その他本件に関連する事例集はこちらをご覧ください。
解説
第1 はじめに
民法の原則の一つに契約自由の原則があります。建物賃貸借契約は賃貸人・賃借人双方の合意に基づいて締結されるもので、賃借人の建物退去時において、建物の補修費用を賃貸人・賃借人いずれが負担するか、契約自由の原則によると、当事者双方の合意があれば、公序良俗や強行規定に反しない限り有効とされます。
その中で、建物退去時において、賃貸人・賃借人いずれが原状回復費用を負担するか争われることがあります。特に、賃借人の通常の使用による損耗費について争われます。
以下に、原状回復費に関する国土交通省ガイドラインを紹介し、賃借人が通常損耗費の負担をするのか、そのような合意があるのか争われた判例を紹介します。
第2 原状回復について
賃貸借契約終了後の原状回復の範囲は負担者等について、国土交通省が「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(以下「ガイドライン」といいます)を定めて公開しています。
ガイドラインでは原状回復について、次のように説明しています。
原状回復を「賃借人の居住、使用により発生した建物価値の減少のうち、賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗・毀損を復旧すること」と定義し、その費用は賃借人負担としました。そして、いわゆる経年変化、通常の使用による損耗等の修繕費用は、賃料に含まれるものとしています。すなわち原状回復は、賃借人が借りた当時の状態に戻すことではないことを明確化しました
このように経年変化、通常の使用による損耗(通常損耗)の補修費用は賃料に含まれるものとしています。そして、「原状回復は賃借人が借りた当時の状況に戻すことではない」ともしています。
次に「通常の使用」について、賃借人が通常の住まい方、使い方をしていても、発生すると考えられる損耗と定義し、このような通常損耗分賃料に含まれるので、賃借人の負担ではなく、その分の補修費用は賃借人の負担ではないとしています。
通常損耗費が賃借人の負担となるかどうか、賃借人の負担とする合意があったかどうかが争われた判決を以下に紹介します。
居住用建物に関する最高裁判所平成17年12月16日判決と営業用建物に関する大阪高等裁判所平成18年5月23日判決です。以下に紹介します。
第3 最高裁判所平成17年12月16日判決
1 当事者
賃借人X:Yから本件共同住宅の一室を賃借。上告人。
賃貸人Y:地方住宅供給公社法に基づき設立された法人。本件共同住宅を賃貸。被上告人。
2 事案の経過
・平成9年12月8日、賃貸人Yは本件共同住宅の入居説明会を開催。 入居説明会では、賃貸借契約書の重要事項、補修費用の負担基準等の説明がXの担当者からなされた。ただ、補修費用に関する個々の項目に関する説明はなされなかった。この説明会のYの義母が出席し、義母からYに説明会の報告がなされた。
・平成10年2月1日、XY間で本件共同住宅の賃貸借契約が締結された。賃料は月額11万7900円とされ、YからXに敷金35万3700円が交付された。
・平成13年4月30日、Yは本件賃貸者契約を解約し、本件住宅をXに明け渡した。
・XはYに、本件敷金から本件住宅の補修費用として、通常の使用に伴う損耗(通常損耗)の補修費を含む30万2547円を差し引いた残額5万1153円を返還した。
・Yは、敷金から差し引かれる補修費用には、通常損耗費用は含まれないとして、Xに対し、30万2547円の返還を求めた。
・本件賃貸借契約における原状回復に関する特約の内容 本件契約書22条2項は,賃借人が住宅を明け渡すときは,住宅内外に存する賃借人又は同居者の所有するすべての物件を撤去してこれを原状に復するものとし,本件負担区分表に基づき補修費用を被上告人の指示により負担しなければならない旨を定めている。本件契約書22条2項で引用する補修に関する負担区分表に、補修の対象物を記載する「基準になる状況」欄、補修状況を記載する「基準になる状況」欄、補修方法を記載する「施工方法」欄、補修費用の負担者を定める「負担基準」欄がある。
3 本件の主要な争点
本件補修約定は、通常損耗費用を賃借人が負担する内容のものかどうか。
4 最高裁の判断(『 』は判決からの引用部分)
本件に関する最高裁の判決は、『賃借人は,賃貸借契約が終了した場合には,賃借物件を原状に回復して賃貸人に返還する義務がある』と賃貸借契約が終了した場合には、賃借人に賃借物の原状回復義務があることを前提として、賃貸借契約の内容から、通常損耗費は賃料に含まれるとしています。
『賃借人は,賃貸借契約が終了した場合には,賃借物件を原状に回復して賃貸人に返還する義務があるところ,賃貸借契約は,賃借人による賃借物件の使用とその対価としての賃料の支払を内容とするものであり,賃借物件の損耗の発生は,賃貸借という契約の本質上当然に予定されているものである。それゆえ,建物の賃貸借においては,賃借人が社会通念上通常の使用をした場合に生ずる賃借物件の劣化又は価値の減少を意味する通常損耗に係る投下資本の減価の回収は,通常,減価償却費や修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませてその支払を受けることにより行われている。』
そして、建物賃借人に通常損耗費の負担義務を負わせることは、賃借人に予期しない負担を負わせることになるので、特別な合意が必要としています。特別な合意は、契約書に明記されているか、賃貸人の口頭による説明でも通常損耗費を賃借人の負担となることを賃借人が明確に認識し合意することが必要としています。
『建物の賃借人にその賃貸借において生ずる通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは,賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから,賃借人に同義務が認められるためには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか,仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には,賃貸人が口頭により説明し,賃借人がその旨を明確に認識し,それを合意の内容としたものと認められるなど,その旨の特約(以下「通常損耗補修特約」という。)が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当である。』
このように通常損耗費を賃借人が負担する場合、契約書に具体的に明記されているか、その旨の特約が明確に合意されている、ことが必要という最高裁の判断から、本件については、本件賃貸借契約書は通常損耗補修特約が具体的に明記されていると言えず、本件負担区分表についても通常損耗費を賃借人が負担することが一義的に明確とはいえないとしています。
『これを本件についてみると,本件契約における原状回復に関する約定を定めているのは本件契約書22条2項であるが,その内容は上記1(5)に記載のとおりであるというのであり,同項自体において通常損耗補修特約の内容が具体的に明記されているということはできない。また,同項において引用されている本件負担区分表についても,その内容は上記1(6)に記載のとおりであるというのであり,要補修状況を記載した「基準になる状況」欄の文言自体からは,通常損耗を含む趣旨であることが一義的に明白であるとはいえない。したがって,本件契約書には,通常損耗補修特約の成立が認められるために必要なその内容を具体的に明記した条項はないといわざるを得ない。』
また、Xによる入居説明会でも、通常損耗費を賃借人が負担すると言う特約の説明が具体的になされなかったとして、賃借人は、本件契約を締結するに当たり,通常損耗補修特約を認識し,これを合意の内容としたものということはできない、としています。
『被上告人は,本件契約を締結する前に,本件共同住宅の入居説明会を行っているが,その際の原状回復に関する説明内容は上記1(3)に記載のとおりであったというのであるから,上記説明会においても,通常損耗補修特約の内容を明らかにする説明はなかったといわざるを得ない。そうすると,上告人は,本件契約を締結するに当たり,通常損耗補修特約を認識し,これを合意の内容としたものということはできないから,本件契約において通常損耗補修特約の合意が成立しているということはできないというべきである。』
こうして、最高裁は本件について、通常損耗費の負担を賃借人とすることはできないとしました。
第4 大阪高等裁判所平成18年5月23日判決
1 当事者
賃借人:本件事業用建物の賃借人。控訴人。
賃貸人:本件事業用建物の賃貸人。被控訴人
2 事案の経過(判決文から判明している事実)
・本件賃貸借契約終了後、賃借人が賃貸借契約締結時に賃貸人に差し入れた140万円から、賃借人が負担すべき金額の控除後の残額55万8600円を請求し、賃貸人は通常損耗費を差し引けば返還する敷金はないと反論した。
・本件賃貸借契約における原状回復に関する特約の内容 契約が期間満了または解約により終了するときは,終了日までに,賃借人は本件貸室内の物品等一切を搬出し,賃借人の設置した内装造作諸設備を撤去し,本件貸室を原状に修復して賃貸人に明け渡すものとするとの条項(本件賃貸借契約書22条1項)
3 本件の主要な争点
本件賃貸借契約において,通常損耗も含めて控訴人が原状回復義務を負う旨の特約が締結されたか否か。事業用建物の場合、居住用建物と異なり、通常損耗費は賃料に含まれず、通常損耗費は賃借人の負担となるといえるかどうか。
4 高裁の判断(『 』は判決からの引用部分)
本件高裁判決は、まず上記最高裁判決を引用して、賃借人に通常損耗費の原状回復義務を負わせるためには、賃貸借契約書の条項にその旨が具体的に記載されているか、当事者間で明確に合意されていることが必要としました。 上記最高裁判決とほぼ同じ文面ですが、引用します。
『建物の賃借人は,賃貸借契約が終了した場合には,賃借物件を原状に回復して返還する義務があるところ,賃貸借契約は,賃借人による賃借物件の使用とその対価として賃料の支払を内容とするものであり,賃借物件の損耗の発生は,賃貸借という契約の本質上当然に予定されているものである。そのため,建物の賃貸借においては,通常損耗により生ずる投下資本の減価の回収は,通常,減価償却費や修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませてその支払を受けることにより行われている。そうすると,建物の賃借人にその賃貸借において生ずる通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは,賃借人に予期しない特別の負担を課することになるから,賃借人に同義務が認められるためには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか,仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には,賃貸人が口頭により説明し,賃借人がその旨を明確に認識し,それを合意の内容としたものと認められるなど,その旨の特約が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当である(最高裁判所平成17年12月16日第二小法廷判決・裁判所時報1402号6頁参照)。』
高裁判決は上記最高裁判決を前提に、事業用建物に関する本件についても、通常損耗費が賃借人の負担になることが契約書に具体的に記載されているか、当事者間での明確な合意が必要としています。そして、本件について、原状回復に関する契約書の規定だけでは、通常損耗費を賃借人の負担とすることはできないとしています。
『これを本件についてみると,前記のとおり,本件賃貸借契約には,契約が期間満了または解約により終了するときは,終了日までに,賃借人は本件貸室内の物品等一切を搬出し,賃借人の設置した内装造作諸設備を撤去し,本件貸室を原状に修復して賃貸人に明け渡すものとするとの条項(本件賃貸借契約書22条1項)がある。 しかしながら,上記の条項は,その文言に照らし,賃借人の用途に応じて賃借人が室内諸設備等を変更した場合等の原状回復費用の負担や一般的な原状回復義務について定めたものであり,この規定が,賃借人が賃貸物件に変更等を施さずに使用した場合に生じる通常損耗分についてまで,賃借人に原状回復義務を認める特約を定めたものと解することはできない。 したがって,同条項は,賃借人が通常損耗について補修費用を負担すること及び賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲を明記するものでないことは明らかであり,また,本件全証拠によっても,賃貸人がこれらの点を口頭により説明し,賃借人がその旨を明確に認識し,それを合意の内容としたと認められるなど,その旨の特約が明確に合意されていることを認めるに足りる証拠はないから,本件賃貸借契約において,通常損耗分についても控訴人が原状回復義務を負う旨の特約があることを認めることはできない。』として、通常損耗費を賃借人の負担とする規定や合意は認められないとしました。
これに対し、賃貸人は営業用物件の場合、利用形態はさまざまで、どれくらいの通常損耗費がかかるのか計算不能のため、通常損耗費は賃料には含まれておらず、賃借人の負担する原状回復の内容に含まれていると反論をしましたが、高裁は、営業用物件であるからといって減価償却費や修繕費等の必要費を賃料の中に入れることは不可能ではない、として賃貸人の主張を認めませんでした。
『賃借物件の損耗の発生は,賃貸借という契約の本質上当然に予定されているものであって,営業用物件であるからといって,通常損耗に係る投下資本の減価の回収を,減価償却費や修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませてその支払を受けることにより行うことが不可能であるということはできず,また,被控訴人が主張する本件賃貸借契約の条項を検討しても,賃借人が通常損耗について補修費用を負担することが明確に合意されているということはできないから,被控訴人の上記主張は,採用することができない。』
こうして、営業用物件の建物賃貸借についても、通常損耗費を賃借人の負担とするためには、賃貸借契約書に具体的に記載されているか、特約で明確に合意されていることが必要としています。
第5 最後に
上記最高裁判決、高裁判決を前提とすると、ご相談者様の場合、賃貸借契約書上通常損耗費を賃借人が負担するということが具体的に記載されているか、特約で明確に合意されているか、或いは口頭で賃貸人から具体的に説明され、合意をした場合でなければ賃借人であるご相談者様が通常損耗費を負担することはありません。また、仮に通常損耗についても賃借人が負担するとの合意が成立していたとしても、その合意の合理性がない場合、賃料が相場であり、使用形態も通常の賃貸と変わりがないというような事情がる場合は合意自体が無効と判断される可能性もあります。
以上