精神的苦痛を理由とする名前の変更
民事|親族法|大阪高等裁判所平成21年11月10日決定|大阪家庭裁判所平成9年4月1日決定
目次
質問
私は、成人女性で、実家から独立してアパートを借り、一人暮らしをしています。私は幼少のころに父親から虐待を受けており、父親はその都度私の名前を連呼していました。父は既に亡くなっていますが、今でも私の名前が呼ばれると、当時の虐待が思い出されてしまいます。私は、今から名前を変えることはできるのでしょうか。
回答
1 戸籍上の名前を変えることについて、戸籍法第107条の2は、「正当な事由によつて名を変更しようとする者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない。」として、改名については「正当な事由」「家庭裁判所の許可」が必要とされています(ここでの名とは氏名の下の名前です。氏(うじ)はいわゆる苗字のことでその変更は戸籍法107条に定められています。以下は名の変更についての解説となります)。
2 この「正当な事由」について、判例は、戸籍上の名を変更することについて、主観的な感情では足りず、社会生活上重大な支障があること、改名することで周囲が混乱しないこと、などが要求されています。ご相談者様の場合、戸籍上の名を使うことについて社会生活上重大な支障があることを立証することが必要です。過去の父親からの虐待の事実を具体的に立証することや虐待により精神的に不安定になっているという医師の診断書も有効な証拠資料となるでしょう。また、改名による社会生活上の混乱を避けるために早い時期からの通称名を名乗ることも有益です。以下の解説で判例を参考にして説明します。個人の尊厳(憲法13条)及び、名前、氏の存在意義から家族(家)制度が存在しない現在妥当な判断でしょう。
3 当事務所関連事例集として、性同一性障害と改名に関する929番、931番等もご参照下さい。
解説:
第一 名前の変更について
法律上、名の変更は、戸籍に名が記載されていますので、戸籍の変更をしなければいけません。戸籍法第107条の2は、「正当な事由によつて名を変更しようとする者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない。」と規定し、名前の変更許可を得るには、「正当な事由」が必要としています。
「正当な事由」に当たるのは、たとえば同姓同名者がいて不便である、珍奇・難読である、外国人とまぎらわしい、戸籍上の名前と別な名前を自分の名前として永年使用してきた等の事情です。個々の審判においてはその変更が「正当な事由」といえるかどうかをケースバイケースに判断されることになりますので、何を主張・立証すれば名の変更が認められるとは一概に言えません。ただ、特定の事情を主張・立証すれば名の変更が認められやすくなるということは言えます。たとえば永年使用の場合に名の変更が認められるためには、おおよそ5年以上の使用実績がなければならないと言われており、申立人は年賀状等の郵便物や公共料金の請求書の宛名等でこれを証明する必要がありますが、下記の高等裁判所の決定のように、改名の必要が認められれば通称名の使用実績が短い期間でも改名は認められています。
第二 具体的手続について
家庭裁判所に改名の許可を申し立てる場合の書式は裁判所HPに準備されています。
名の変更許可の申立書(15歳以上)
https://www.courts.go.jp/saiban/syosiki/syosiki_kazisinpan/syosiki_01_20/index.html
同HPに、書式と記載例のPDFがありますのでご参照ください。
以下では、名の変更についての裁判例について、大阪高裁の事案と大阪家裁の事案を紹介します。
第三 性同一性障害のある者が名の変更許可の申立てをし、名の変更が認められた事案。
大阪高等裁判所平成21年11月10日決定(家裁月報 62巻8号75頁)
【当事者】
戸籍上の名は「A」。抗告人(原審申立人)。
Aは生物学上の性は男性だが、心や行動は女性という性同一性障害に悩み、病院治療を続けている。将来は男性から女性への性転換手術を予定している。
戸籍上の名を、「A」から「B」への変更の許可を求めて家庭裁判所に申し立てをした。「A」は男性名を表す名前だが、「B」は男性とも女性とも断定はできない名前である。
なお、以下では、妻をC、父をD、母をEとする。
【事案の経過】時系列に従って記載します。
・Aは昭和32年に父Dと母Eの長男として出生。
・Aは物心ついたころから自分の生物学的性別(男性)であることに違和感を感じていた。女性的な行動をするようになっていた。
・大学に入ってからは、自分の女性的な好みを隠して男性的な振る舞いをするようになった。
・大学卒業後、教員として働くようになってからは、男性として生活した方が円滑な社会生活を過ごせると考え、自分の女性的な面は隠すようにしていた。
・昭和58年、Cと婚姻。Aは自身が男性であることを確立するために結婚をしたが、Cとの性交渉は徐々になくなり、この20年間はまったくCとの性交渉はなかった。CはAが性同一性障害であることを理解し、支援をした。
・平成17年ころからAは性同一障害について、複数の病院で診断・治療を受け、現在も継続している。そのうちの一つの病院からは「女性として生活をする意思は固く、ホルモン治療も継続しているため、改名は必要である。」との診断書を受領している。
・Aは勤務先の学校では、特に女性らしく振舞っているわけではない。自身が性同一性障害であることは、上司・同僚・職員にも説明をし、生徒の保護者には説明していないが、裁判所により改名が許可されれば管理職とA自身で保護者に説明する予定にしている。
・改名後に使用する「B」という名については、自身の運営するブログや親しい友人には「B」名を使用したくらいだが、本件申立後は知人等に「B」名で郵便を出し、友人からは「B」名での返信が届き、又、公共料金の請求先の氏名も「B」に変更してもらっていた。
・こうした経緯の中で、Aは家庭裁判所に名の変更許可の申立てをしたが、家庭裁判所はこれを認めなかったので、高等裁判所に抗告の申立てをした。
【争点】
性同一性障害のある者が名の変更許可の申立てをした場合、名の変更は認められるか。
【判決】『 』は判決からの引用部分です。
高等裁判所は、まず、名の変更に関する一般論として、戸籍法107条の2が名の変更について正当な事由を必要としていることの趣旨について、みだりに名の変更を許さないことにより呼称秩序の安定を図るとともに、当人に名の変更を求めることが不当な場合に名の変更を認めることにより、公益と個人の利益の調和を図るものとしています。
『戸籍法107条の2は,名の変更には正当な事由のあることが必要である旨定めているところ,これは,名は氏とともに人の同一性を明らかにするものであって,名を変更することは一般社会に対して大きな影響を及ぼすものであるから,これをみだりに変更することを許さないこととして,呼称秩序の安定を確保するとともに,当人に当該名を使用することによって社会生活上著しい支障があって,当該名の使用を強いることが社会観念上不当であるとか,営業上や技芸上の襲名のように,変更後の名を使用することが当人の社会生活上必要かつ相当であるという場合などには名の変更を認めることとし,公益と個人の利益の調和を図ろうとするのがその法意であると解される。』
上記の趣旨を前提に本件について、次の理由により「A」から「B」への名の変更を認めています。
・『抗告人は性同一性障害に罹患しており,社会生活上,自己が認識している性とは異なる男性として振る舞わなければならないことに精神的苦痛を感じ,抗告人の戸籍上の「A」という名は男性であることを表示していることから,「A」という名を使用することにも精神的苦痛を感じていると認められ』る。
・ 『抗告人に責めに帰すべき事由があるなど,そのような精神的苦痛を甘受するのが相当であるといえるような事情は認められない』。
・上記2点から『「当該名の使用を強いることが社会観念上不当である」場合に当たるといえる。』
そして、本件での名の変更について、一般社会に及ぼす影響について、裁判所は次のように述べて、勤務先の現場や職場以外の社会生活について混乱は生じないとしています。
・『もっとも,名を変更することは当人だけの問題ではなく,一般社会に対しても影響を及ぼすものであるから,この点について検討すると,抗告人は,学校に勤務しているが,上司や同僚は抗告人が性同一性障害に罹患していることを知っており,名の変更によって直ちに職場秩序に混乱を生じさせるとは認められない。また,保護者等については,もともと抗告人は学校内でも女性らしさが表に出ていたと認められることも考慮すれば,校長や教頭などから適切な方法により説明すれば,A教諭とB教諭との間に誤認混同が生じるおそれも少なく,教育の現場が混乱するとは直ちに認められない。また,名の変更によって職場以外の抗告人の社会生活について混乱が生じるような事情も認められない。』
さらに裁判所は、抗告人が結婚していることについて、変更後の名前により、同性婚の外観を示すものではないとしています。
・『なお,抗告人は婚姻しているが,近時,一見一読しただけでは性別が明らかでない名も増えてきていることは明らかであり,「B」という名が女性の名であるとも断定できないから,「B」への名の変更によって直ちに同性婚の外観を呈するといえるか疑問である上,戸籍上の性別が男性であることは変わりがなく,そのような外観を呈したことにより一般社会に影響を及ぼすとはいえない。』
以上の理由から、裁判所は改名後の「B」という名の使用実績が少なくても「B」への改名を認めました。
第四 過去の性的虐待による精神的苦痛を理由とする改氏・改名を認めた事案。この事案では名前だけでなく氏(苗字)の変更の許可も問題となっています。
大阪家庭裁判所平成9年4月1日決定(家裁月報 49巻9号128頁)
【当事者】
甲川A子。申立人。
幼いころ実兄から性的虐待を受け、精神的苦痛を負い、現在の氏名を呼ばれることに耐えがたい精神状態になった。
甲川A子から通称名の「乙村B子」への氏と名の変更を申し立てた。
【事案の経過】概ね時系列に従って記載します。
・申立人は小学生当時に実兄から継続的に性的虐待を受けた。
・この性的虐待の影響が申立人の心に深く、長期間にわたって残り、そのことを想起することにより、強い心理的苦痛や感情的変化などの生理的反応を示すようになった。
・申立人はその後、2度結婚したがいずれも離婚し、定職についても働くことは困難で完全な社会復帰ができない状況にある。
・申立人は戸籍上の氏名で呼ばれることに強い抵抗を示すが、これは戸籍上の氏名で呼ばれることが忌まわしい過去を想起させるからであった。
・申立人が氏名の変更を求める理由は、加害者ひいては被害行為を想起させる氏と忌まわしい子供時代を象徴する名と決別することにより、被害行為を過去のものとし、新しい人生を歩みたいという思いである。
・申立人は本件申立の約5年ほど前から、変更後の名前である「乙村B子」を表札に掲げており、長女の学校の関係でも「乙村B子」を使用している。
【争点】
過去の性的虐待による精神的苦痛を理由とする改氏・改名は認められるか。
【判決】『 』は決定からの引用部分です。
裁判所は、まず、申立人の氏名の変更の理由を社会的要因を理由とするものではなく、主観的な事由としています。
『申立人が自己の氏名の変更を求める理由は、珍奇であるとか難読・難解であるとか、あるいは社会的差別を受けるおそれがあると言った社会的な要因を理由とするものではなく、主観的なしかも極めて特異な事由である。』
次に、裁判所は、主観的事由であっても、性的虐待の過去から脱却することを目的としており、戸籍上の氏名の使用を強制することは、申立人の社会生活上に支障を与え、社会的に不当としています。
『しかしながら、主観的事由ではあるけれども、近親者から性的虐待を受けたことによる精神的外傷の後遺症からの脱却を目的とするものであり、氏名の変更によってその状態から脱却できるかについて疑念が残らないでもないけれども、上記認定の事実に照らせば、戸籍上の氏名の使用を申立人に強制することは、申立人の社会生活上も支障を来し、社会的に見ても不当であると解するのが相当であると言える。』
そして、裁判所は、氏の変更を「やむを得ない事由」があると認め、名の変更についても単なる好悪感情とは言えず、改名後の名前も使用年数を考えると、「正当な事由」があるものと認めています。
『以上により、申立人が氏を変更するについて、戸籍法107条1項の「やむを得ない事由」があるものと認めるのが相当であり、また名の変更についても、単なる好悪感情ではなく上記のような事由に基づくものであること及びその使用年数等を併せ考えると、同法107条の2の「正当な事由」があるものと解するのが相当である。』
以上の理由で、裁判所は申立人の改姓・改名を認めました。107条1項は氏の変更について「やむを得ない事由」が必要とされていますが名前の変更の場合の「正当な事由」とで特に違うという議論はなく同様に考えてよいでしょう。但し、氏の変更の場合は同一戸籍内に多数の人がいる場合、他の人の事情も考慮されることになります。
第五 最後に
上記の判例を参考にすると、ご相談者様の場合、精神的苦痛という主観的な理由での改名となりますので、これを裁判官に説得し改名許可を受けるためには、戸籍上の名では社会生活上支障をきたすことを積極的に主張・立証することが必要となります。過去のDVにより精神的障害を負っているという診療内科・精神科の医師からの診断書、ご自身のこれまでの経緯に関する上申書など有効となるでしょう。それに合わせて通称名を知人との手紙のやりとりや公共料金の支払等で継続的に使用し、証拠として準備することも有益になるでしょう。
改名を家庭裁判所に求めるにあたり、どのように主張・立証するかは、一度お近くの法律事務所に相談に行かれるとよいでしょう。
以上