退職従業員の競業避止義務

労働|職業選択の自由|営業の自由|使用者と労働者の利益対立|義務違反の要件

目次

  1. 質問
  2. 回答
  3. 解説
  4. 関連事例集
  5. 参考条文・判例

質問:

退職従業員の競業避止義務違反について相談します。弊社は、タイヤのホイールを販売している会社になります。弊社では、Xという従業員が、長年の間、営業主任を務めていたのですが、この度、そのXが弊社を退職することになりました。退職後、Xは、弊社に無断で、会社を立ち上げ、タイヤのホイール販売事業を営んでいます。しかも、Xは、あろうことか、弊社の大口の取引先と懇意にしていたことを利用して、その取引先と契約関係を結んでしまいました。そのせいで、その取引先からは、弊社との契約関係を打ち切られてしまいました。

このようなXに対し、何か法的な手段を取ることはできないのでしょうか。そもそも、Xと弊社とは、退職に際し、競業避止義務に関する誓約書を取り交わしているので、Xが弊社と同じタイヤのホイール販売事業を営むことは許されないのではないでしょうか。

回答:

競業避止義務合意の有効性と違反に対する対応について回答します。貴社は、Xとの間で、競業避止義務に関する誓約書を取り交わしていますが、職業選択の自由が憲法22条によって保障されていることから、一定の制限を受け、競業避止義務に関するあらゆる合意が有効となるわけではありません。

競業避止義務に関する合意が有効といえるか、判例上、①守るべき企業の利益があるか、②従業員の地位が、競業避止義務を課す必要性が認められる立場にあるものといえるか、③地域的な限定があるか、④競業避止義務の存続期間や⑤禁止される競業行為の範囲について必要な制限が掛けられているか、⑥代償措置が講じられているか、といった観点から、その有効性が判断されています。特に、④競業避止義務の存続期間(存続期限)が定められていない場合には、その有効性が否定される可能性が高いと言わざるを得ませんので、まずは、この点を確認しましょう。

仮に競業避止義務に関する合意が有効であると考えられる場合には、法的手続きとしては、損害賠償請求訴訟や営業の差止請求訴訟を提起することがあり得ます。営業の差止請求訴訟を提起するに当たっては、併せて、営業差止めの仮処分の申立ても実施すべきでしょう。仮処分では、手続きの迅速性が重視されているため、訴訟と異なり、数か月程度で裁判所による判断が示されます。営業差し止めの仮処分が発令された場合は、強制執行としては、直接に取引を止めさせる方法は取れす、間接執行の方法しか取れませんので、取引先に対して仮処分が発令されていることを告げて取引の停止に協力を求める必要があります(取引先としては取引を止める法的義務はありません)。

なお、競業避止義務の合意の有効性が否定されるような場合でも、退職した従業員が会社の営業秘密を使用または開示して、自ら不正の利益を得る目的又は会社に損害を与える目的でその営業秘密を使用または開示する行為は不正競争防止法違反(同法第2条1項7号)となり、損害賠償や行為の差し止めを請求できることになりますのでその点も別途検討してください。

競業避止義務に関する関連事例集参照。

解説:

1 競業避止義務の概要

そもそも、競業避止義務とは、従業員が、在職中若しくは退職後に、その企業の事業と競合する行為を行うことを禁止することをいいます。就業規則に競業避止義務に関する定めを設けたり、退職の際に競業避止義務に関する誓約書を取り交わしたりするなどして、従業員に対して競業避止義務を課すこと自体は、法的には許されています。

もっとも、憲法22条1項では、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」旨が定められており、職業選択の自由が保障されています。同条は、営業の自由も保障していると解釈されており、自由競争の範囲内で、どのような営業をすることも基本的には自由ということになります。そのため、従業員に対して競業避止義務を課すことについては、制限的に解されることになります。

特に、退職後の従業員の場合は、在職中の従業員と異なり、「労働者及び使用者は、労働契約を遵守するとともに、信義に従い誠実に、権利を行使し、及び義務を履行しなければならない。」として信義誠実の原則を定めた労働契約法3条4項の適用を受けませんので、その制限はより強度のものとなります。

したがって、競業避止義務に関するあらゆる合意が有効となるわけではありません。

2 競業避止義務に関する合意の有効性について

⑴ 競業避止義務に関する合意については、判例上、①守るべき企業の利益があるか、②従業員の地位が、競業避止義務を課す必要性が認められる立場にあるものといえるか、③地域的な限定があるか、④競業避止義務の存続期間や⑤禁止される競業行為の範囲について必要な制限が掛けられているか、⑥代償措置が講じられているか、といった観点から、その有効性が判断されています。

⑵ まず、①守るべき企業の利益については、不正競争防止法で法的保護の対象とされている「営業秘密」は勿論のこと、これに準じて取り扱うことが妥当な技術的な秘密や営業上のノウハウ、顧客との人的関係等も、これに当たるとされています。

本件では、顧客との人的関係が問題となっていますが、従業員が、業務として、顧客のもとを幾度も訪問するなど、長期間、経費をかけて、取引関係を構築したような場合には、守るべき企業の利益があると判断されやすい傾向にあります(東京高裁平成12年7月12日判決)。他方、従業員が入社前に自身の顧客となった者を引き継いだなど、企業自身が顧客の開拓を行ったわけではないような場合には、守るべき企業の利益がないと判断されやすい傾向にあります(東京地裁平成24年1月23日判決)。

⑶ 次に、②従業員の地位については、競業避止義務に関する合意の有効性が特定の地位から形式的に判断されるのではなく、企業の守るべき利益を保護するために競業避止義務を課すことが必要な従業員であるかどうかが実質的に判断されることになります。

例えば、アルバイトであるという一事をもって、競業避止義務に関する合意の有効性が否定されるわけではなく、営業上のノウハウ等の企業の守るべき利益を伝授されていたのであれば、競業避止義務を課すことが必要な従業員に当たり、競業避止義務に関する合意の有効性が肯定される方向で検討されることになります(東京地裁平成22年10月27日判決)。

⑷ 次に、③地域的な限定については、これが争点となっている裁判例は少ないですが、争点となっている場合には、業務の性質等に照らし、合理的な絞り込みができているかが問題とされています。

もっとも、地域的な限定がないことのみをもって、競業避止義務に関する合意の有効性が否定されるわけではなく、例えば、地域的な限定がないものの、「全国的に家電量販店チェーンを展開する会社であることからすると、禁止範囲が過度に広範であるということもない」とした裁判例が存在します(東京地裁平成19年4月24日判決)。

⑸ 次に、④競業避止義務の存続期間については、形式的に何年以内であれば有効と認められるというわけではなく、労働者の不利益の程度等を考慮した上で、企業の守るべき利益を保護する手段としての合理性等が実質的に判断されることになります。

もっとも、近似の裁判例では、1年以内の期間であれば、競業避止義務に関する合意の有効性が肯定される方向で検討される傾向にあるのに対し、2年間といった期間であると、業避止義務に関する合意の有効性が否定される方向で検討される傾向にあるといえます(大阪地裁平成21年10月23日判決)。

⑹ 次に、⑤禁止される競業行為の範囲については、企業の守るべき利益との整合性から判断されることになります。

競業行為の定義は、就業規則や誓約書等において具体的な定めがあれば、原則として、それに従う一方、一般的・抽象的にしか定められていないのであれば、従業員が従前勤めていた企業と競業関係に立つ企業に就職したり、競合関係に立つ事業を開業したりすることといった一般的な定義に従って判断されることになります。

例えば、競業行為の禁止対象を在職中に営業として訪問した得意先に限定するなど、禁止する活動内容が限定されている場合には、競業避止義務に関する合意の有効性が肯定される方向で検討されることになります(東京高裁平成12年7月12日判決)。

⑺ 最後に、⑥代償措置については、これがないことのみをもって、競業避止義務に関する合意の有効性が否定されるわけではありませんが、他の要素と比較しても、裁判所の判断により直接的な影響を及ぼしているものと考えられ、十分な代償措置が講じられている場合には、競業避止義務に関する合意の有効性が肯定される方向で強く検討されることになります。

また、代償措置について明確に規定されていなかったとしても、例えば、労働の対価と考えられる以上の高額な賃金の支払いを受けている場合には、それが競業避止義務に対する代償としての性格を有すると認められることもあります(みなし代償措置)(東京地裁平成22年9月30日決定)。

3 具体的な法的手続き

仮に競業避止義務に関する合意が有効であると考えられる場合には、まずは、事前交渉として、競業避止義務違反に関する損害を任意に賠償するよう請求するとともに、貴社の事業と競合関係に立つ事業を営むことを直ちに中止するよう警告すべきでしょう。

かかる請求や警告にXが応じない場合には、損害賠償請求訴訟や営業の差止請求訴訟を提起することを検討しましょう。

損害賠償請求訴訟については、主として、Xが貴社との競業避止義務に関する合意に違反した、すなわち、Xが貴社に対する、その事業と競合する行為を行わないという債務を履行しなかったとして、債務不履行に基づく請求をすることになります(民法415条)。損害賠償額の予定条項がない限りは、貴社において、現実に発生した個々の損害及びその数額を具体的に立証しなければなりません。その際、Xに奪われた取引先との契約関係が解消されるに至った経緯やその取引先との従前の契約実績が分かる資料を証拠として提出する必要があります。

また、Xに奪われた取引先を取り戻すという観点からは、Xの営業の差止請求訴訟を提起することが有用でしょう。もっとも、事実関係等に争いがある場合には、差止請求訴訟で判決を得るに当たって、1年以上の期間を要することが想定され、競業避止義務の存続期間が経過してしまうケースも存在します。そのため、営業の差止請求訴訟の提起と併せ、営業差止めの仮処分の申立てを実施すべきでしょう。仮処分では、手続きの迅速性が重視されているため、数か月程度で裁判所による判断が示されます。ただし、あくまで「仮」の処分であるため、最終的には、営業差止請求訴訟で勝訴する必要があります。

また、仮処分命令が発令されても直接取引を辞めさせるような強制手段はありません。間接強制と言って、取引を止めない場合は一定の金額を支払わせるという強制執行になります。そのような場合は、併せて取引先に取引停止の仮処分命令が発令されていることを告げて、取引の停止に協力してもらうよう要請することを検討することになります。

4 まとめ

以上のとおり、法的手続きを検討する前提として、先例を調査した上で、競業避止義務に関する合意の有効性を吟味する必要があります。仮に競業避止義務に関する合意が有効であると考えられる場合には、損害賠償請求訴訟や営業の差止請求訴訟を提起することがあり得ますが、特に、営業の差止請求訴訟の提起(及び営業差止めの仮処分の申立て)をご本人で実施することには、手続の性質上、大きな困難を伴うと言わざるを得ません。

そのため、お近くの法律事務所にて、競業避止義務に関する知見のある弁護士にご相談いただいた上、まずは、競業避止義務に関する合意の有効性を吟味されることをお勧めいたします。

関連事例集

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※参照条文・判例

【日本国憲法】

第22条

1 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

【民法】

第415条(債務不履行による損害賠償)

1 債務者がその債務の本旨に従った履行をしないとき又は債務の履行が不能であるときは、債権者は、これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし、その債務の不履行が契約その他の債務の発生原因及び取引上の社会通念に照らして債務者の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。

2 前項の規定により損害賠償の請求をすることができる場合において、債権者は、次に掲げるときは、債務の履行に代わる損害賠償の請求をすることができる。

① 債務の履行が不能であるとき。

② 債務者がその債務の履行を拒絶する意思を明確に表示したとき。

③ 債務が契約によって生じたものである場合において、その契約が解除され、又は債務の不履行による契約の解除権が発生したとき。

第416条(損害賠償の範囲)

1 債務の不履行に対する損害賠償の請求は、これによって通常生ずべき損害の賠償をさせることをその目的とする。

2 特別の事情によって生じた損害であっても、当事者がその事情を予見すべきであったときは、債権者は、その賠償を請求することができる。

【労働契約法】

第3条(労働契約の原則)

1 労働契約は、労働者及び使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、又は変更すべきものとする。

2 労働契約は、労働者及び使用者が、就業の実態に応じて、均衡を考慮しつつ締結し、又は変更すべきものとする。

3 労働契約は、労働者及び使用者が仕事と生活の調和にも配慮しつつ締結し、又は変更すべきものとする。

4 労働者及び使用者は、労働契約を遵守するとともに、信義に従い誠実に、権利を行使し、及び義務を履行しなければならない。

5 労働者及び使用者は、労働契約に基づく権利の行使に当たっては、それを濫用することがあってはならない。

《参考判例》

(東京高裁平成12年7月12日判決)

第三 当裁判所の判断

一 請求原因1(当事者等)の事実は、当事者間に争いがない。

二 請求原因2(営業上の人間関係の利用)について

1 被控訴人が、大原町の街路灯設置のために協会と街路灯設置に関する契約を締結したことは当事者間に争いがなく、この事実に証拠(甲八の一、二、甲九の一ないし三、甲一〇の一、二、甲一一の一ないし一〇、甲一二、甲一四の一、二、甲一八、一九、二一、甲二二の一、乙一、乙三の一ないし五、乙五、乙六の一ないし五、乙七ないし九、一三ないし一七、一九、二一ないし三〇、証人E、証人D、控訴人代表者、原審被告F、原審被告G)及び弁論の全趣旨を総合すると、組合の街路灯設置工事業者が被控訴人に決定するまでの間には、次のような経緯があったことが認められる。

(一) 組合では、商店街の街路灯が老朽化してきたため、平成五年ころから、それを新たに設置することが検討されていた。

(二) 控訴人では、平成五年四月から、Cらが組合の理事長であったEらを訪問して、街路灯設置に関する営業活動を行っていた。また、Cらは、街路灯設置に関して、大原町役場と大原町商工会を訪問するなどの活動も行っていた。これらの活動は、平成六年三月ころから活発になった。

(三) 被控訴人の従業員であったHらは、平成六年五月に、大原町役場を訪問し、組合で平成七年度に街路灯設置の計画があることを知り、平成六年六月、大原町役場と大原町商工会に行き、担当者から、組合における街路灯設置計画について説明を受けた。

(四) 平成六年一一月に、協会が設けられ、組合員である商店主らが役員になったところ、控訴人は、同年一〇月ころから、協会の役員になる予定の者(同年一一月以降は役員)を訪問するなどして、街路灯設置に関する営業活動を行い、他方、被控訴人も、営業部長であったDらが、同年一〇月ころから、協会の役員予定者(同年一一月以降は役員)を訪問するなどして、街路灯設置に関する営業活動を行った。Cは、控訴人退社後、被控訴人に入社し、数回右訪問の際に同行した。

(五) 同年一一月一八日、協会の第一回理事会が開催され、控訴人、被控訴人を含む五社の中から、街路灯の工事業者を選定することが決定された。

同月二八日、協会の第二回理事会が開催され、右の五社が、街路灯設置について説明した。被控訴人においては、Cは出席せず、常務取締役であったIらが出席して説明した。その後、右理事会で検討した結果、控訴人と被控訴人の二社のうちの一社と契約することに決定された。

(六) 同年一二月八日、協会の第三回理事会が開催され、控訴人と被控訴人の二社が再度説明した。その説明会では、被控訴人において、I、Dらが説明し、Cは、出席したがほとんど発言しなかった。その後の理事会で、協会が独自に得た信用調査の情報等も併せて検討した結果、被控訴人と契約することが決定された。

被控訴人が控訴人に比べ会社の経営基盤が安定し信用力で勝っていることが、右決定の大きな理由であった。

(七) 協会は、右決定に基づき、被控訴人との間において、街路灯設置に関する契約を締結した。

2 控訴人は、Cが営業活動を通じて築いた緊密な人間関係を利用したと主張するが、従前の職場において築いた人間関係を新たな職場において利用して営業を行うことは、これが営業秘密の不正利用、競業避止義務違反等により違法とされない限り、原則として自由にこれを行うことができるものである。

控訴人は、Cの行為の違法性を基礎づける事実として、控訴人の営業の特殊性を主張するが、仮に、控訴人の業界における営業が前記主張のような特色を有するとしても、その特色のみをもってしては、Cの行為が違法であるとまでいうことまはできない。請求原因2に係る控訴人の主張は、失当である。

三 請求原因3(雇傭契約上の債務不履行)、同5(損害)について

1 証拠(甲三、乙一三)によれば、Cは、控訴人に入社する際に誓約書に署名したが、その誓約書には、次の内容の条項が記載されていたことが認められる。

(一) 控訴人在職中に控訴人の営業として訪問した得意先について、退社後六か月間は、控訴人の得意先として尊重し、自己又は同業他社の従業員としての営業は一切しない。

(二) 退職時には、その前後を問わず、控訴人の得意先との営業について事務引継ぎをする。

2 右1認定の事実によると、控訴人は、Cとの間で、概要右1(一)(二)の内容の契約を締結したものと認められる。Cは、右誓約書について、控訴人に入社する際、形式的なものであるといわれ、内容を認識しないまま署名押印したと主張するが、この主張に沿う証拠はない。

3 Cは、右2認定の契約により、控訴人在職中に控訴人の営業として訪問した得意先について、退社後六か月間は、自己又は同業他社の従業員としての営業を行わない義務を負っているものと認められる。

証拠(甲七、二一、二三、控訴人代表者)によると、商店会等に対する街路灯の営業は、成約までに長期間を要し、契約を取るためには、その間に営業担当の従業員が商店会等の役員等をたびたび訪問して、その信頼を得ることが重要であること、そのため、この種の営業においては、長期間経費をかけて営業してはじめて利益を得ることができることが認められるから、このような営業形態を採っている控訴人においては、従業員に退職後も競業避止義務を課する必要性が存するということができる。そして、控訴人が課している競業禁止の期間は六か月間に限られ、その対象も控訴人在職中に控訴人の営業として訪問した得意先に限られており、競業一般が禁止されるものではない。したがって、右約定は、競業禁止規定として十分な合理性を有するものであって、無効ということはできない。

Cが平成六年九月一六日に控訴人を退社したことは当事者間に争いがない。前記二認定の事実によると、Cは、控訴人の従業員として組合に対する営業活動を行っていたところ、控訴人退社後六か月以内に、被控訴人の従業員として、協会の役員又は役員予定者を訪問したり、説明会に出席するなどの活動を行ったものと認められ、この行為は、控訴人在職中に控訴人の営業として訪問した得意先について、退社後六か月間は、自己又は同業他社の従業員としての営業を行わない義務に違反するということができる。

そこで、右義務違反と控訴人が協会と街路灯設置に関する契約を締結することができなかったこととの因果関係について判断する。前記二認定のとおり、被控訴人は、独自に、組合において平成七年度に街路灯設置の計画があることを知って情報を収集しており、その後もDらが協会の役員等に対する営業活動を行っていたこと、前記二認定のとおり、協会は、説明会等の手続を経た上、協会が独自に得た情報も考慮して、被控訴人と街路灯設置に関する契約を締結することに決定したことに加え、本件全証拠によっても、Cが被控訴人の従業員として行った前記活動が右契約締結の成否に影響を与えたとは認められないことを総合すると、Cが被控訴人の従業員として行った前記活動と控訴人が協会との間で街路灯設置に関する契約を締結することができなかったこととの間に因果関係があると認めることはできない。

4 Cは、右2認定の雇傭契約により、退職時には、その前後を問わず、控訴人の得意先との営業について事務引継ぎをする義務を負っているものと認められるところ、Cが控訴人を退社した際に事務引継ぎをしなかったことは、当事者間に争いがない。

そして、右引継ぎをしなかったことが右雇傭契約上の義務に違反するとしても、右引継ぎをしなかったことによって控訴人の営業に現実の支障が生じたとは認められず、また、前記二認定のとおり、協会は、説明会等の手続を経た上、協会が独自に得た情報も考慮して、被控訴人と街路灯設置に関する契約を締結することに決定したものと認められるから、右引継ぎをしなかったことと控訴人が協会との間で街路灯設置に関する契約を締結することができなかったこととの間に因果関係を認めることはできない。

5 控訴人は、協会が被控訴人と右契約を締結したのはCが関与したためであると主張するが、右因果関係の存在を認定するためには、被控訴人がCの関与なしに右契約の締結をすることができなかったことについて高度の蓋然性が認められなければならない。本件においては、前記認定のとおり、被控訴人の営業におけるCの関与の程度は高いものではなく、また、協会は、独自に調査をしたうえで右契約を締結したというのであるから、Cの関与と控訴人が右契約を締結することができなかったこととの間に、このような高度の蓋然性を認めることはできない。

6 したがって、請求原因3に係る請求は、認めることができない。

四 請求原因4(虚偽事実の告知)、同6(被控訴人の責任)について

1 甲六、二七(控訴人においてCの部下であったJの陳述書)には、Cらが、平成七年、控訴人の取引先である幕張駅南口商店街、三山央町商店街振興組合及び当代島商店会に対して、控訴人が融通手形を乱発していること、控訴人の社長が病気であること、控訴人が間もなく倒産すること等を告知した旨の記載がある。

しかしながら、Iは、Cらの右発言を直接聞いたものではないこと、他方、右書証に反する乙一三(被告Cの陳述書)があることに照らすと、甲六、二七の記載から直ちに、Cが右発言をした事実を認めることはできない。

2 また、仮にCらが右各取引先に対して前記の内容を告知していたとしても、Cがこのような発言をすることについて、被控訴人が指示をしたことなど、被控訴人がCとともに共同不法行為責任を負うことを基礎づける事実は、本件全証拠を総合しても、何ら認めることができないので、この点においても、被控訴人が損害賠償責任を負うということはできない。

五 以上によれば、控訴人の被控訴人に対する請求はいずれも理由がなく、これを棄却した原判決は正当であって、控訴人の本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴被用の負担につき、民事訴訟法六一条、六七条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(東京地裁平成24年1月23日判決)

第3 当裁判所の判断

1 認定事実

前記前提事実,各項目末尾掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(1) 原告代表者は,昭和51年にSに入社し,総合人材育成本部設計・技術研修センター部長等を歴任し,平成13年,同社を退社して,平成15年,原告を設立し,その代表取締役に就任した。

原告代表者は,商品の形状や寸法などのばらつき範囲を規制する公差を適切に設定する公差処理の専門家であり,原告においても公差設計をその営業の中心としていたが,長野県内においては,3次元CADを中心とした事業展開を行った。具体的には,原告が,顧客のW導入を支援するとともに,原告代表者自らが講師として指導に当たるなどするものであった。(甲29,原告代表者)

(2) 被告Y1は,平成3年,大学卒業後,Mに入社し,3次元CAD商品開発を主な業務とする事業部に配属となった。その後,被告Y1は,平成7年,3次元CADの営業,教育及びサポートを業務とする会社を設立し,さらに,平成12年,Iにおいても同様の業務を担当した。

被告Y1は,平成15年頃,原告の3次元CADの営業を強化したいとの要望に応じ,同社に入社し,同社の設計ソリューション部長及び営業部長の肩書で業務に当たった。入社に当たって,被告Y1は,将来独立を考えていることを原告代表者に伝えたほか,取締役に就任したい意向を伝えたが,同意向は実現しなかった。

原告入社後,被告Y1は,3次元CADの販売,サポート等に従事した。原告における3次元CADの一般企業の顧客は,被告Y1が原告に入社する以前は数社程度であったが,同人入社後は30社程度まで増加した(増加した顧客の一部は被告Y1が原告に入社する以前から被告Y1の顧客であった。)。

(甲29,乙20,26,原告代表者,被告Y1本人)

(3)ア 被告Y1は,平成18年9月頃,原告代表者に対し,1年後に原告を退職する旨伝えた。

イ その後,原告代表者と被告Y1は,同人が原告を退社した後の両者の競業及び被告Y1が原告において担当していた顧客のサポートについて,原告と被告Y1のどちらがどのように対応するかについて協議を重ねた。

この間,原告代表者は,被告Y1に対し,「上記時期に退職することは止めて,原告代表者の子が成長するまでの間,原告の社長に就任して欲しい。」旨伝えるなどしたが,被告Y1は独立の希望が強く原告代表者の上記提案を断った。

ウ 上記協議の結果,原告代表者及び被告Y1は,平成19年7月頃までに,被告会社が,設立後2年間,原告の提携会社として,原告の顧客であるとされた60社に都度訪問して販促活動を行うほか,原告に対し営業指導等のコンサルタント業務を行い,原告から同業務の報酬を得るとの方針を決定した。

(甲29,乙20,24,26,原告代表者,被告Y1本人)

(4)ア 上記(3)ウの方針を決定する過程において,原告代表者は,被告Y1が原告を退職した場合,同社の現在及び将来の顧客を奪う可能性が高いと考えるようになった。そこで,原告代表者は,平成19年8月頃,原告代理人弁護士に対し,被告Y1が,被告会社において3次元CAD・CAE事業を行うことができないようにする(以下「本件要望」という。)ための合意書案を作成するよう依頼した。

イ 原告代理人弁護士は,同月17日,上記依頼に基づく合意書案(甲22の2。以下「合意書案①」という。)を作成し,原告代表者宛て送付した。この際,原告代理人弁護士は,本件要望につき,これを実現することは法的に「極めて難しい。」旨コメントした。

ウ 原告代理人弁護士は,同月21日,合意書案①につき,原告代表者の新たな要望を容れ,修正した合意書案(甲23の2。以下「合意書案②」という。)を作成し,原告代表者宛て送付した。

エ 原告代表者は,同月26日,上記修正した合意書案②を被告Y1宛て送付し,これに対して,被告Y1は,同月27日,上記修正した合意書案についての疑問点及び再修正を希望する点を加筆した書面(甲25の2。以下「合意書案③」という。)を原告代表者宛て送付した。

(甲22,23,24,25(いずれも枝番を含む。),29,原告代表者)

(5)ア 合意書案②には,被告Y1が,原則として,原告の既存顧客に接触することを禁止する条項(以下「接触禁止条項」という。)が存在しており,これに対して,被告Y1は,上記(4)エのとおり,従前の原告代表者との協議では,上記接触は禁じられていなかったのではないかとの疑問を呈した。

同様に,合意書案②には,有効期間を10年とする条項が存在し,被告Y1は,従前の原告代表者との協議では,有効期間が2年間であったことから60社を原告の既存顧客とすることに合意した旨指摘した。

その上で,被告Y1は,原告代表者に対し,合意書案②では,今後,原告及び被告Y1の双方がうまくいかないだろうから,他の案を模索すべきである旨伝えた。

イ(ア) 合意書案②には,第1合意書4条4項の規定及び第1合意書支払条項は存在していなかった。

(イ) 合意書案②においては,「原告は,…原告の既存顧客以外については,被告Y1が『第1類 3次元CAD/CAE事業』に関する営業活動を行うことを認める。ただし,被告Y1は,その営業活動の内容及び結果を逐一原告に対し書面にて報告しなければなら」ないとの条項が存在した。

(甲22,23,24,25(いずれも枝番を含む。),26,被告Y1本人)

(6) 原告代表者は,平成19年8月29日,原告代理人弁護士の事務所において同弁護士と合意書案につき打合せをし,同弁護士は,同日,原告代表者宛て再々修正された合意書案(甲26の2。以下「合意書案④」という。)を送付した。

合意書案④は,第1合意書とほぼ同様の内容である。合意書案②の接触禁止条項が削除され,被告Y1は,原告の既存顧客に対し,業務上接触することができることとなったが,本件報告等を要する旨の条項及び第1合意書支払条項が設けられた。

また,上記(5)イ(イ)の条項は削除され,被告Y1は,事実上,原告の関与なしに,原告の既存顧客以外についての3次元CAD/CAE事業に関する営業活動を行うことができない条項が新設された(第1合意書3条に該当する。)。

被告Y1は,合意書案④についても,なお内容に納得が行かなかったことから,原告代表者に対し,第三者の仲介の下,原告との間で合意点を見つけたい旨伝えた。

しかし,原告代表者は,被告Y1に対し,再三にわたって,「被告Y1が合意書案④に合意せずに独立することは,競業避止義務に抵触する。」「合意書案④以外には考えられない。」などと発言して,上記案に合意するよう迫った。

(甲26(枝番を含む。),29,乙26,28,原告代表者,被告Y1本人)

(7) 被告Y1は,合意書案④の内容には首肯し難いと考えてはいたが,平成19年9月当時,同月30日の退社が目前に迫っており,独立後も原告との協働が必要であることなどから原告代表者との関係をこじらせず円満退社したいとの希望があったこと,原告において行っていた業務の引継等で多忙を極めていて合意書案につき十分な対処ができなかったことなどから,平成19年9月2日,不本意ながら,第1合意書に署名・押印した。この際,被告Y1の要望を容れて,合意書案④の有効期間10年は,5年に訂正した上で,第1合意書が締結された。同合意書の内容は前記前提事実のとおりである。

被告Y1は,平成19年9月30日に原告を退社し,同年10月4日,被告会社を設立して,その代表取締役となった。なお,上記退社に際して,退職金等は支給されていない。

(甲1,被告Y1本人)

(8) 原告代表者は,被告Y1が被告会社を設立した後,同人らが,第1合意書の合意事項に違反する行為を度々行なっていると考え,被告会社との間において高額な罰金額を定めた契約を結ばなければ,さらに被告Y1が悪質な裏取引を行うのではないかと危惧した。

そこで原告代表者は,第2合意書案を作成の上,被告Y1に示した。その際,原告代表者は,被告Y1に対し,「やましいことがなければ,1000万円でも1億円でもサインしろ。」旨言って,同書面に係る合意を成立させるよう迫った。

被告Y1は,第2合意書の合意事項に違反する事実はなく,今後もそのような行為は行わないと考えていたこと,独立直後に原告代表者と揉めたとされれば今後の営業にも差し支えがあるのではないかと懸念されたことなどから,同書面に記名押印し,第2合意書を作成した。同合意書の内容は前記前提事実のとおりである。

(甲2,原告代表者,被告Y1本人)

(9) 原告における売上の推移をみると,平成15年度は1億円を下回る程度であったものが,被告Y1の原告入社後,3次元CADソフトの売上が増加し,平成16年度には1億円前後となり,その後も漸次増加し,平成19年度には1億数千万円程度となった。その後,平成20年度は1億円を下回ったが,平成21年度は再び1億円前後となった。平成20年の減収は,被告Y1の退社とともにいわゆるリーマンショックが影響している。(原告代表者)

2 争点に対する判断

(1) 争点(1)(第1合意書3条ないし5条は公序良俗に反するか。)について

ア(ア) 前記前提事実及び認定事実によれば,被告Y1は,長年にわたり,3次元CADの営業,教育及びサポートに携わり,原告においても同業務を担当していた者であるところ,第1合意書によれば,3次元CAD等事業につき,これを原告の固有事業とし(3条1項),被告Y1は,原告の既存顧客(4条2項)に対しては,業務上必要な限りにおいて接触することができるものの,その際には本件報告等を行う義務が課され(4条4項),また,自己の顧客その他第三者から同事業につき業務依頼を受けた場合には必ず原告を紹介するとともに,同事業については自己の顧客その他第三者に対して全て原告に委託する旨を表明すべき義務が課されており,紹介・委託をなした場合には紹介料として粗利益の20%が支払われるものとなっている(3条4項,同5,6項)。結局のところ,被告Y1は,第1合意書の有効期間である5年間にわたり,事実上,原告の関与なしに,3次元CAD等事業を行うことができない旨定めたものといえるから,上記各条項はいわゆる競業避止義務を課したものと解される。

(イ) なお,原告が本件請求の根拠とするのは,第1合意書4条4項及び同条5項(以下「本件根拠規定」という。)並びに第1合意書支払条項たる同6条であるが,本件根拠規定は,上記のとおり,同規定を除く第1合意書3条ないし5条(以下「その余の条項」という。)と一体のものとして合意されたものであり,相互に関連するものであること,加えて,第1合意書4条4項(以下「接触制限条項」という。)は,制定に至る経緯(前記認定事実(3)ないし(7))に照らせば,原告代表者は,可能な限り接触禁止条項に準ずる条項の設定を希望して接触制限条項を規定したものと推認でき,接触制限条項もまた,その余の条項と同様,被告Y1が3次元CAD等事業に係る原告の顧客を奪うことを防止するために規定されたものと解されること(接触制限条項には,これに違反した場合に,違約金50万円が課されるところ,同金額は,3次元CADを顧客に販売し教育を行った場合に通常発生する利益の額である(原告代表者)ことも上記認定を裏付けるものといえる(仮に,争点(1)についての原告の主張とおりの目的で接触制限条項が設定されたとすれば,より僅少な額の違約金が課されるものと考えられる。)。)。以上によれば,公序良俗性の判断に際しては,本件根拠規定にとどまらず,その余の条項をも含めてこれを考慮すべきである。以下,上記趣旨に従い検討する。

イ 一般に,従業員が退職後に同種業務に就くことを禁止ないし制限することは,職業選択の自由に対する大きな制約であり,退職後の生活を脅かすものであるから,形式的に競業禁止(制限)特約が締結されているからといって,当然にその文言どおりの効力が認められるものと解することはできない。他方,従業員が従前の使用者の下で獲得した知識・ノウハウ等を利用して同人と競業することを無制約に許容した場合の使用者の不利益も無視し得ない。そこで,従業員と使用者との間において競業避止義務の特約が締結された場合に,同義務を課すことに合理性があると認められる場合に限り,これを有効なものというべきである。そして,上記合理性の有無についての判断においては,①競業禁止によって守られる利益の性質,②特約を締結した従業員の地位,③代償措置の有無,④禁止行為の範囲や禁止期間が適切に限定されているか,⑤対等な交渉力に基づいた従業員の真摯な合意が存在するか等を考慮すべきであり,これにより競業避止義務特約が有効と認められるか否かを判断すべきである。以下,本件につき検討する。

ウ(ア) 上記①(競業禁止によって守られる利益の性質)について

a 前記認定事実によれば,原告代表者は,原告において3次元CADの営業等に従事していた被告Y1が,退職後に,原告の現在及び将来の顧客を奪う可能性があるものと考え,これを防止するために第1合意書を作成したものであるところ,一般に,使用者にとって獲得した顧客との人的関係を維持することは競業避止義務特約の設定における正当な目的の一つといえる。

b しかしながら,本件においては,前記認定事実のとおり,被告Y1が原告入社に当たって入社以前に自己の顧客となった者の一部を引き継いできたこともあって,原告における3次元CADの営業実績及び同売上は,被告Y1の原告入社後に飛躍的に伸びており,同業務の受注には被告Y1と顧客との個人的信頼関係が大きく影響したものと推認されるところである。その一方,顧客の開拓が専ら原告の投下資本によるものと認めるに足りる証拠は見当たらない。

以上によれば,本件において,競業避止義務特約設定の目的には一応の正当性が認められるものの,上記bの事情がある本件では,上記目的の正当性を過大視することはできない。

(イ) 上記②(特約を締結した従業員の地位)について

前記前提事実によれば,被告Y1は,大学卒業後から原告入社まで,約12年にわたり,3次元CADに関する商品開発,営業,教育及びサポートを業務とする会社勤務等をなしてきており,被告Y1の原告入社も同社の3次元CAD事業の営業強化の一環であること,原告入社後は設計ソリューション部長及び営業部長の肩書で業務に当たっており,その営業成績が良好であったことからしても,被告Y1が同事業に精通し,かつ,営業力等を有する者であるといえる。他方,被告Y1の3次元CAD事業以外の分野における能力は明らかではない。

他方,被告Y1の原告社内における地位は,上記のとおり営業部長の肩書を有しており,原告における営業の統括をなしていたといえ,したがって原告の営業に関する社内事情を熟知しているものと推認される。

(ウ) 上記③(代償措置の有無)について

前記認定事実によれば,競業避止義務を設定するに当たり,退職金等の支払はなく,原告から被告Y1に対し何らかの代償措置が図られた事実は見当たらない。

証拠(甲29)によれば,被告Y1は,原告入社時に月額30万円の給与及び成果に応じた賞与(平成14年9月実績で150万円)の支払を受けていたこと,また,平成19年度においては,月額40万円の給与及び賞与年間284万円の支払を受けていた事実が各認められるが,前記認定事実にみた原告における売上の推移から推認される被告Y1の原告への貢献度を考慮すると,これらを代償措置とみなすことはできない。

さらに,第1合意書においては,被告Y1の「既存顧客」として30社が示されており(同合意書添付の別紙3),原告代表者は,同30社は原告の既存顧客であったが,被告Y1の要求によりやむなく手放したものである旨供述する。しかしながら,上記30社につき,被告Y1が関与しうるのは,第1合意書において第4類事業とされたNEXT3D事業に関してのみであり,同事業は,3次元CAD事業を前提とするものであって,第4類事業のみでは原則として営業が成り立たず,また,事実上,被告Y1が得意とする3次元CADの営業はなし得ないものと認められる(前記前提事実,弁論の全趣旨)ところであるから,これを代償措置とみなすことはできない。

(エ) 上記④(禁止行為の範囲や禁止期間が適切に限定されているか)について

前記前提事実によれば,第1合意書においては,被告Y1が長年にわたり従事してきた3次元CAD等事業が競業制限の対象となっていること(第1合意書3条,同4条),被告Y1は,同事業に関する業務依頼がなされた場合には,新規の顧客からであっても必ず原告を紹介し,かつ,原告に委託する旨表明しなければならず,粗利益の80%は原告が獲得するとの制約が課せられていること(同3条3項,同条4項,5条),競業制限の期間は5年間であること(同8条),同地域は何らの限定もないことが各認められる。

(オ) 上記⑤(対等な交渉力に基づいた従業員の真摯な合意が存在するか)について

一般に,就業中に締結された退職後の競業避止義務規定は,従業員がその立場上使用者の要求を受け入れてそのような特約を締結せざるを得ない状況にあるといえるところ,前記認定事実によれば,被告Y1は,約1年前に原告を退社することを予告し,その後,原告代表者との間において,被告Y1退社後の3次元CAD事業の協働について協議が行われたこと,平成19年7月頃までに,前記事実認定(3)ウの合意が形成されていたこと,ところが同年8月頃,原告代表者は,上記合意内容とは異なる合意書案②を被告Y1に示したこと,同月27日,被告Y1は原告代表者に対し同合意案②には種々疑問点・不審点が存在する旨伝えたこと,その一方で,被告Y1は,原告代表者との関係をこじらせず円満に退社する意向を強く持っていたこと,この間,原告代表者は,被告Y1に対して合意書案④を示し,再三にわたり合意するよう迫ったこと,そのため被告Y1は合意書案④の内容にも不満があったが,合意の有効期間が10年であったものを5年とすることにして,不本意ながら第1合意書に署名押印したことの各事実が認められる。

してみると,原告代表者が被告Y1を脅して第1合意書に合意するよう強要したとする被告Y1主張事実は認めるに足らないものの,少なくとも,被告Y1において,第1合意書締結に際して,原告と対等な交渉力に基づいた真摯な合意が存在したということは困難である。

(カ) 競業避止義務の設定の合理性判断につき,従前の従業員の行為の著しい背信性をも加味すべきものと考えられるところ,原告は,被告Y1につき,原告での勤務において種々の問題行動があったことが第1合意書作成の端緒となった旨主張し,同代表者もこれに沿う陳述をする。しかし,前記認定事実のとおり,原告代表者は退職を予告した被告Y1に対し,原告の社長就任を要請しており,原告代表者において被告Y1の就労態度が優秀であるとみなしていたと認められるから,上記陳述は信用できず,上記主張は採用できない。

(キ) まとめ

以上によれば,第1合意書3条ないし5条の規定は,被告Y1が長年携わってきた3次元CAD等事業につき,事実上,原告の現在の顧客のみならず新たに獲得される顧客から生じる利益(の8割)まで原告が獲得しようとする目的に出たものであること,原告退社後,被告Y1の生計の資本は,自己の培った3次元CAD事業に関する上記営業力等のみといえること,競業を制限するにつき原告から被告Y1に対して代償措置がなされた事実は見当たらないこと,禁止期間は5年間と長期であり,地域も限定されていないこと,合意形成に際し,被告Y1に対等な交渉力に基づいた真摯な合意が存在するとはいえないことからすると,他方において,競業避止義務特約設定の目的自体には一応の正当性が認められること,また,被告Y1が原告においてその営業を統括する営業部長等の地位にあり営業に関する原告の社内状況を知悉する立場にあったことを考慮しても,被告Y1の職業選択の自由を不当に制約するものであって,公序良俗に反し無効というべきである。したがって,争点(2)(3)(4)を判断するまでもなく,第1合意書支払条項に基づく請求は棄却されるべきである。

(2) 争点(5)(第2合意書は公序良俗に反するか。)について

第2合意書の記載内容は前記前提事実(3)のとおりであり,原告及び被告会社双方が義務を負う体裁にはなっているものの,前記認定事実にみた同書面作成の経緯及び同書面に掲げられている該当事例からすれば,その真意は,被告らにおいて,第1合意書の合意を潜脱して,原告の既存顧客との間で取引を行うことを禁止するための規定と解される。したがって,第2合意書は,第1合意書を前提としてこれに条項を付加するものといえるところ,上記(1)にみたとおり,第1合意書は公序良俗に反して無効であるから,これを前提とする第2合意書も公序良俗に反し無効である。加えて,第2合意書は,上記禁止された取引が行われた場合,その利益の多寡に関わらず,違約金1000万円を支払う旨の合意がなされており,この点においても公序良俗に反するものといわざるを得ない。したがって,争点(6)を判断するまでもなく,第2合意書支払条項に基づく請求は棄却されるべきである。

(3) 争点(7)(不当利得返還請求の成否)について

ア 争点(7)アの事実については当事者間に争いがない。

イ 同イ,ウの事実はこれを認めるに足らない。

原告は,依頼書(甲16)により,同イの事実が認められる旨主張するが,弁論の全趣旨によれば,同書面は,被告会社が,原告に対し,r社,原告及びa社の三者間で,責任分担の契約を締結することを依頼したものと認められるから,原告の上記主張は採用できない。

また,被告会社作成の回答書(乙19)には,a社に対するPDM導入業務に関して,被告会社は,原告に対し,平成20年6月以降,被告会社が対応していない部分につき既に受領した金額の内から支払うつもりであり,支払金額は折半を考えている旨の記載があるが,弁論の全趣旨によれば,同書面は,被告会社から原告への和解提案の申入れとみるべきであり,被告会社が原告主張の不当利得債務を自認した趣旨と認めることは困難である。

ウ 以上によれば,原告の争点(7)の主張は理由がない。

3 結論

以上のとおりであり,原告の請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし,主文のとおり判断する。

(東京地裁平成22年10月27日判決)

第3 当裁判所の判断

1 事実関係

請求原因(1)ないし(3)の事実及び同(4)の事実(ただし,開校の時期を除く。)は当事者間に争いがない。これらに,証拠(甲1ないし11,乙1ないし4)及び弁論の全趣旨を総合すると,次の事実が認められる。

(1) 原告は,各種カルチャー教室の経営,歌手・タレント・作詞家・作曲家の育成等を目的とする会社であり,アカデミーを運営している。アカデミーは,話すためのヴォイストレーニングを専門的に行う教室であり,1750名余の生徒を擁している。b社はアカデミーの講師を雇用している会社である。A(以下「A」という。)は両会社の代表取締役を務めている。

(2) Aは,ヴォイストレーニングに関する著書やDVDを多数発売しており,アマゾンの書籍紹介には,「これまでになかった『話すための専門のヴォイストレーニング&ティーチングを行う』aアカデミーを立ち上げ」と記載され,また,アカデミーのホームページには,「今までになかった!『話す』ため専門のヴォイストレーニング」と記載されている(甲10,11)。アカデミーにおける生徒に対する接し方や話すためのヴォイストレーニングの指導方法及び指導内容,集客方法・生徒管理体制等のノウハウは,Aにより長期間にわたって確立されたもので,独自かつ有用性の高いものである。

(3) 被告は,大学在学中の平成9年から2年間,青二塾声優養成所二部一期生に所属して声優の基礎を学び,卒塾後は,Kの研究生としてラジオドラマや再現ドラマの出演等の活動をし,同社の研究生終了後は朗読公演,演奏会影アナウンス等の活動をした。

(4) 被告は,平成18年5月にb社に雇用され,以後原告が運営するアカデミーに講師として週1日のアルバイトとして働いてきた。被告のアカデミーにおける仕事の内容は,ヴォイストレーニングの講師とそれに関する事務作業であった。

Aは,入社面接の際に被告がヴォイストレーニングの講師として勤務した経験がないと聞いていたことから,平成18年5月ころ被告に対し,生徒に対する接し方や話すためのヴォイストレーニングの指導方法及び指導内容,集客方法・生徒管理体制等,講師として働く上で必要な事項を指導した。

そして,原告は被告に対し「受付事務マニュアル」(甲8)を交付し,これに基づいて,受付の対応に関するアカデミー独自の具体的な方法を伝えた。このマニュアルには,受付事務に関し,その心構え,受講生に対する応対の手順の詳細,通常レッスンと体験レッスンに関する事務手続など,集客方法・生徒管理に有用な情報が含まれていた。また,原告は被告に対し,「aアカデミー 体験レッスンの手順」(甲9)を交付し,これに基づいて授業のノウハウを伝えた。ここには,「受講生の出迎え」「自己紹介」「体験レッスン開始(体験レッスンの意味,指導内容の伝達)」「腹式呼吸のデモンストレーション」「発声のデモンストレーション」「滑舌のデモンストレーション」「実践編」等の体験レッスンの実施についての独自の有用な情報が含まれていた。さらに,原告は被告を含む各講師に対し,授業ごとに授業した内容や生徒の問題点,改善点などを記載したカルテを作成するように指示した。

(5) Aは,平成20年3月,被告に正社員への登用を打診した。しかし,被告は,週1回の勤務のまま在籍することをためらって退社を決意し,Aに対し,親戚からお見合いの話があり同年5月末に退職させてほしいと伝え,後に名古屋で結婚が決まったと話した。

原告は,話すためのヴォイストレーニングを行うための指導方法及び指導内容という原告独自のノウハウが,原告と競合関係に立つ者に不当に利用されることを防止するため,原告の運営するヴォイストレーニング教室に勤務する講師に対して誓約書等を提出してもらい,退職後3年間,競業避止義務を課すこととしており,被告に対してもこれを求めた。

被告は,平成20年6月28日,原告の上記求めに応じ,本件誓約書(甲1)と本件秘密保持誓約書(甲2)を提出した。本件誓約書には,「4 業務上の機密・個人情報は,在職中はもとより退職後といえども,開示,漏洩もしくは使用しないこと。」が含まれており,本件秘密保持誓約書には,次の約定が含まれていた。

「(秘密保持の誓約)

第1条 社内規定を遵守し,次に示される貴社の技術上または営業上の情報(以下「秘密情報」という)について,貴社の許可なく,いかなる方法をもってしても,開示,漏洩もしくは使用しないことを約束致します。

① 財務,人事に関する情報

② 顧客に関する情報

③ 学校運営上のノウハウ

④ 授業のノウハウ

⑤ 貴社が特に秘密情報として指定した情報

(退職後の秘密保持の誓約)

第3条 秘密情報については,貴社を退職した後においても,私自身のため,あるいは他の事業者その他の第三者のために開示,漏洩もしくは使用しないことを約束致します。

(競業避止義務の確認)

第4条 私は,前条を遵守するため,貴社退職後3年間にわたり,次の行為をしないことを約束致します。

① 貴社と競合関係に立つ事業者に自ら就職したり,役員に就任すること

② 貴社と競合関係に立つ事業を自ら開業又は設立すること」

被告は,平成20年7月12日に退職覚書(甲3)を提出した。上記覚書には,「私は,貴社を退職するにあたり,以下の事項を遵守することを誓約致します。」,「平成20年6月28日に提出致しました貴社との秘密保持に関する誓約書,及び誓約書を守り,また退職によって生徒を困惑,退会させ,貴社に損失,迷惑がかからないよう,生徒の保持に努めると共に,誠実に引継ぎ業務を行ないます。なお,秘密保持に関する誓約書第4条の競業避止義務を遵守するにあたり,従業員及び生徒の引き抜き行為は一切行ないません。」との記載があった。

(6) 被告は,退職後の準備として,ホームページ制作会社に平成20年9月以降にホームページを開設したいと伝えたところ,「インターネットは,開設後2週間はほとんど反応が出てこないと考えていいので,9月から活動するのであれば,9月に出すのでは遅すぎます。」と言われ,同年8月後半からヴォイストレーニング教室を宣伝するためのホームページを開設した。被告は,平成20年8月30日にb社を退職し,そのころ東京都中野区に「○○教室」を開校し,今日に至るまで同教室を運営している。

(7) 被告が開設したホームページは,次の内容を含んでいる。(甲4ないし6)

ア ○○教室

東京都中野区にある話す声のボイストレーニング・朗読教室

話す声のボイストレーニング(個人レッスン)

レギュラートレーニングコース

レッスン受付時間

平日・土曜日 10:00~20:55(最終受付20:00)

日祝 15:00~20:55(最終受付20:00)

2010/6/15 6月の1DAYレッスン日程UPしました。

レッスンを担当する講師

Y ボイスアドバイザー

イ レギュラートレーニングコースの紹介

(ア) ストレッチ・腹式呼吸のトレーニング

(イ) 表情筋のトレーニング

(ウ) 発声のトレーニング

(エ) 滑舌のトレーニング

(オ) チャレンジトレーニング,実践トレーニング

(カ) 録音トレーニング

2 被告の反論(1)(本件競業避止合意は公序良俗に反するか)について

(1) 被告は,本件競業避止合意は合理性を欠き,公序良俗に反し無効であると主張する。

しかし,本件競業避止合意は,その規定全体からみて,原告が顧客に関する情報,学校運営上のノウハウ,授業のノウハウ等の秘密情報を保有していることから,従業員に退職後も秘密情報の保持を誓約させ,秘密情報を保持することを目的とするものと解される。そして,アカデミーにおける話すためのヴォイストレーニングを行うための指導方法・指導内容及び集客方法・生徒管理体制についてのノウハウは,原告代表者であるAにより長期間にわたって確立されたもので独自かつ有用性が高いことは前記1認定のとおりであるから,本件競業避止合意は原告の上記ノウハウ等の秘密情報を守るためのものということができ,目的において正当である。また,本件競業避止合意が被告に対し原告退職後3年間の競業行為を禁止するのも,上記目的を達成するための必要かつ合理的な制限であると認められる。このように,本件競業避止合意は目的が正当であり,その手段も合理性があるから,公序良俗に反しない。

(2) 被告は,本件競業避止合意が公序良俗に反すると主張し,その根拠として,①Aの確立した指導方法・指導内容及び集客方法・生徒管理体制についてのノウハウは独自性がなく価値が低いこと,②被告は週1回(実働7時間)のアルバイト従業員にすぎず,給与は時給制で研修受講時は時給800円それ以後は時給900円ないし1200円であったこと,③競業避止期間が3年間と長期間であり,そのうち既に2年間は経過していること等を挙げる。しかし,上記①については,原告のノウハウに独自の有用性があることは前示のとおりであり,また,乙1ないし3(他のヴォイストレーニング教室のホームページ)はこれらの教室の存在がうかがえるだけであって,原告のノウハウに独自の有用性があるとの判断を左右するものではない。上記②については,被告はヴォイストレーニングの講師の経験がなかったところ,Aから話すためのヴォイストレーニングに行うための指導方法及び指導内容等についてノウハウを伝授されたのであるから,本件競業避止合意を適用して原告の上記ノウハウを守る必要があることは明らかであり,被告が週1回のアルバイト従業員であったことは上記判断を左右するものではない。上記③の競業避止期間3年についても,原告のノウハウ保護という本件競業避止合意の目的との関係において長きに過ぎるとはいえない。したがって,被告の上記主張は採用することができない。

3 被告の反論(2)(本件誓約書等は心理的強制によるものか)について

被告は,本件誓約書等は退職間際の時期に心理的に強制されて誓約させられたもので,対等な当事者としての合意とはいえないから,その誓約の効果も制限され,被告に対しその遵守を法的に強制することはできないと主張する。被告の上記主張は,その趣旨が必ずしも明らかでないが,心理的に強制されて誓約された本件誓約書等は法的拘束力を有しないというものと解される。しかし,仮にある合意が心理的に強制されたとしても,これによって直ちに法的拘束力がなくなるとはいえず,被告の上記主張は採用することができない。

この点をおき,被告が心理的に強制されたかどうかについて検討すると,被告の陳述書(乙4)には,「Aから今度誓約書を作るようになりましたと決めつけるような表現で言われ,Aのいうことは絶対だという雰囲気が教室にあったため週1回のアルバイトの被告が反発することは考え及ばなかったこと,他の退職した講師が独立して活動していることが判明したときに,連絡ノートに「このままではすましません」というAの一文が書かれているのを見て,Aに逆らうと自分が教室の中でどんな状況に追い込まれるのか不安にかき立てられ,誓約書の署名を拒否してそのせいでレッスンの質が下がってしまうといった事態を避けるためには誓約書に署名しないといけなかった」との陳述記載部分がある。しかし,被告は,退職の意向を表明した後に原告から誓約書等への署名を求められ,1か月後に本件誓約書等に署名しており,署名した2か月後に退職したことは前記1認定のとおりであるから,これらの事情に照らせば,上記陳述記載部分はたやすく信用することができない。他に被告が心理的に強制されたことを基礎付ける具体的な事実の主張及び立証はない。

4 被告の反論(3)(差止めの要件)について

原告と被告間で本件競業避止合意が成立していること,被告は退職後東京都中野区に「○○教室」を開校し,今日まで同教室を運営していること,被告の開設するホームページには上記ヴォイストレーニング教室を宣伝しており,同教室で「話す声のボイストレーニング」を行う等旨の記載があることは前記1認定のとおりである。これらの事情を総合すると,被告が話すためのヴォイストレーニング等を行う教室を開業する行為は,原告と競合関係に立つものであって,本件競業避止合意に反する。これらの事情に,被告は今後も同教室を運営する意思を有していることを併せ考慮すると,話すためのヴォイストレーニングを行うための授業方法,授業内容等についての原告のノウハウを保護するためには,被告がホームページ及びブログ等を作成してウェブ上に公開することによって同教室の宣伝,勧誘等の営業行為をすることを差し止める必要性が高いというべきである。

被告は,差止め請求が認められるためには,当該行為を放置しておくと回復し難い損害が生ずるという事情をも原告において主張立証することを要すると主張する。しかし,本件競業避止合意に反する競業行為が行われている以上,競業行為に当たる営業行為を差し止める必要性があることは前示のとおりであり,それ以上に原告において当該行為を放置しておくと回復し難い損害が生ずるという事情まで主張立証する必要はない。

5 被告の反論(4)(本件訴訟の提起は権利の濫用か)について

被告は,本件訴訟の提起が権利の濫用に当たると主張し,その事情として,①原告が本件訴訟を提起したのは,退職から2年後に被告のホームページを見つけてからのことであり,時期が遅いこと,②原告に損害が発生しておらず,競業関係にないこと,③競業避止義務が退職後3年間というのは長期に過ぎること,④被告の教室は個人事業で,原告の経営規模とは比較にならないほど小さいこともあり,原告にとって経済的な意味はなく,本件請求は形式的な書面を奇貨とするものであること等を挙げる。

しかし,上記①については,原告は,被告から退職して名古屋で結婚すると聞かされていたことから,被告が退職後に都内でヴォイストレーニングの教室を開設することは想定できなかったと考えられ,このような原告が被告のホームページを発見するのが遅くなったことを被告自身に非難されるというのは本末転倒である。上記②については,被告が退職後に競業行為を行っており,これにより授業方法,授業内容等についての原告のノウハウが侵害される現実的な可能性がある以上,これを守るために本件訴訟を提起するのは正当な権利の行使であって,他に具体的な損害の発生まで立証する必要はない。上記③については,競業避止期間が3年であることは原告のノウハウを守るために長きに過ぎるとはいえない。上記④の被告の経営規模が小さいことは,原告のノウハウを守るという目的を否定する事情にならない。他に本件訴訟の提起が権利の濫用に当たることを基礎付ける事情の主張及び立証はない。

6 結論

以上によれば,原告の請求は理由があるからこれを認容することとし,主文のとおり判決する。

(東京地裁平成19年4月24日判決)

第3 当裁判所の判断

1 証拠(甲1~9,12~19,乙1,2,4,5,7,8,証人B,被告本人。なお,書証につき枝番の記載は省略する。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

(1)原告は,家電製品の量販店を全国的に展開しており,その店舗数は子会社を含むグループ全体で254店(平成16年4月当時)である。これらの店舗は12の地区に分けられ,各地区に地区部長が置かれている。原告の店舗における取扱商品は,家電製品が中心であるが,これに限られず,CD,DVD,ゲーム等のソフト,時計等のブランド品,ゴルフ用品,カー用品,リフォーム関連商品,各種生活用品など多岐にわたっている。

原告の従業員の営業系列における職階は,平社員,コーナー長,フロアー長,副店長,店長,母店長,地区部長,営業副本部長,営業本部長,副社長,社長となっている。このうちコーナー長以上の地位にある者には役職手当が支給され,その額(平成16年5月改定施行のもの)は,コーナー長2万円,フロアー長13万3000円~18万0500円(売上げの規模により異なる。),店長13万3000円~28万5000円(同前。ただし,店舗の売上げが一定以上になると,店長は理事に任じられて固定年俸制となり,年1回理事賞与が支給される一方,役職手当の支給にないとされており,被告は退職当時役職手当を受給していなかった。)等となっている。他方,フロアー長以上の地位にある者は,労働基準法上の管理監督者と取り扱われるので,時間外手当,休日手当等は支給されない。

被告は,後記(4)のとおり,地区部長,母店長,店長等を務めるとともに,理事に任じられたが,原告の「職務分掌並びに職務権限規程」によれば,店長は店内業務の執行の統括,店内の各職位の指揮監督等を,母店長は複数店舗の指揮監督等を,理事及び部長は本部長の補佐,所管業務の統括,店長の業務執行の管理調整等を行うとされる。また,地区部長以上の地位にある従業員及び担当役員は,原告の会社全体の営業に関する問題を議題とし,方針決定等を行うために週1回本社で開かれる営業会議の構成員となる。

(2)原告は,平成11年ころから,フロアー長以上の地位にある従業員が退職する場合には競業避止義務及び秘密保持義務を負わせることとしており,被告が退職した当時は,退職後最低1年間は同業者へ転職しないことを誓約する旨の役職者誓約書(被告が署名押印したものが本件誓約書である。)を提出しなければならないとされていた。原告は,平成16年11月,「退職処理の留意点について」と題する通達を店長等にあてて発し,退職願の記入上の注意点や提出期限等を知らせるとともに,フロアー長以上の者の退職の場合には役職者誓約書を必ず記入させて提出させることが店長の業務である旨を通知した。また,原告は,退職する者に向けた「退職金関連書類の送付について」と題する文書を作成しているが,これには,退職金支払に必要な書類(企業年金保険給付金請求書,退職所得の受給に関する申告書等)に不備があると退職金の支払が大幅に遅れることがある旨及び役職に就いていた従業員は役職者誓約書の提出も必要である旨の記載がある。

原告は,役職者誓約書を提出させる目的につき,原告は独自のノウハウ(前記第2の2(2)(原告の主張)ア参照)を活用して家電量販店業界第1位の地位を達成し続けており,そのようなノウハウ及びその運用は原告の機密情報であって,社外に流出させないことが原告にとって重要な関心事であるが,フロアー長以上の役職者は,多数の部下を指揮監督し,原告独自のノウハウを熟知してその運用や改善に携わる立場にあるので,機密情報の社外流出を防ぐためには1年間の競業避止義務を課する必要があると説明している。

(3)c社(平成16年4月に商号変更をする前の商号は「株式会社c1」)は家電製品の販売等を業とする会社であり,家電量販店「c1」チェーンを全国的に展開している(直営店,フランチャイズ店を合わせた店舗数は,平成17年3月時点で,子会社を含むグループ全体で231店である。)。

原告とc社は,家電量販店チェーンを全国的に展開する会社として直接競業する関係にある。家電量販店業界においては原告が最大規模の売上高を計上しているが,この業界は全国的に競争が激しく,各社間の業務提携,子会社化等も進められている。大手の量販店チェーンとしては,原告及びc社を含め10社(グループ)程度あり,その中でも,前橋市を本店とする原告と水戸市を本店とするc社は,北関東を中心に一時激しい競争を繰り広げてマスコミで報道されたことがあるなど,いわゆるライバル関係にある。

b社は,c社が議決権の約9割を有する子会社であり,c社の役員であるBが代表者を務めるなど,同社と密接な関係にある。b社の事業の中心は携帯電話機の卸売りであるが,これは,Dの携帯電話機の流通に関しては,家電量販店に対する卸売りは代理店を通して行うという特徴があり,「c1」チェーンも代理店を経由して仕入れる必要があるので,携帯電話機を仕入れて卸売りするための代理店として設立されたことによるものである。b社は携帯電話機の小売りも一部行っているが,それ以外に家電製品の小売りはしていない。

なお,スタッフ・ユーは,人材派遣会社であり,c社と取引関係はあるものの,資本関係,系列関係等はない。

(4)被告は,平成9年2月ころ,それまで勤めていたイセヤデンキを退職し,同年4月16日に原告に入社して高崎本店の家電フロアー長として勤務を開始し,平成10年10月に成田店の店長,平成12年4月に横浜本店の店長,平成14年11月に神奈川地区の地区部長になり,また,この間の同年7月に理事に任じられた。平成16年6月には茅ヶ崎店の店長になり,平成17年2月には母店長とされた。茅ヶ崎店は,原告の店舗中で相当大規模の優良店である。

被告は,店長になった以降,勤務時間が連日長時間に及び,休暇も思うように取れない状態が続いたこと,地区部長の職を解かれて茅ヶ崎店の店長となったことを降格と感じたことなどから,平成16年12月ころに退職を決意した。

被告は,そのころ,原告におけるかつての同僚で,当時b社に勤務していたEに,転職先がないかどうかを相談した。Eはc社の専務取締役のBを原告に紹介し,被告は,同月末ころ,c社の本社でBと面会した。Bは,被告に対し,被告がc社に入社すると,役職者誓約書の関係で原告との間にトラブルが発生する可能性があるので,これは避けるべきであるが,人材派遣会社であるスタッフ・ユーに登録し,派遣社員として,c社の関連会社であるb社で働くことはできる旨の話をした。被告は,1年間は本件誓約書に抵触しないように派遣社員の形をとった上で,その後にc社の正社員になろうと考えた。

被告は,平成17年3月3日付けで,一身上の都合により同年4月15日付けで退職する旨の退職願を原告に提出した。また,前記(2)の通達等により,自分が退職する場合には役職者誓約書を提出しなければならないと知っていたので,同年3月20日付けで本件誓約書を作成し,原告の本社に郵送した。この時点までに,被告が原告を退職した後に派遣社員の形でb社で働くことは決まっていた。

被告は,同年4月15日に原告を退職し,同月16日にスタッフ・ユーに登録して,b社で派遣社員として稼働し始め,さらに,後記(5)のとおり,同年6月1日にc社に入社した。被告は,家電量販店である原告に勤務した経験があったことから,そのような経験のない中途採用の従業員に比し,給与等の面で優遇を受けることができた。

(5)原告の常勤監査役であったCは,平成17年4月ころ,原告を退職したD,E及び被告がc社に移籍したらしいとの情報を得たので,同年5月9日にBと面談した際,上記3名のc社への移籍の実態等について問い合わせた。Bは,被告を派遣社員として受け入れているなどと回答した。

また,原告代表者及びCは,同月19日,Bと会談し,原告とc社の間の業務上の問題について話をしたが,その席上,上記3名の移籍についても話題とされ,原告代表者が,D以外は許す旨の発言をした。

Bは,Eに対し,原告代表者の上記発言によれば被告のc社への転職を原告が承諾したということができると伝え,被告は,Eを通じて,その旨を聞いた。そして,同年5月下旬にc社の担当者と面接をし,同年6月1日付けでc社に正社員として採用され,同社での勤務を開始した。

(6)被告は,原告の退職金規程に従って,平成17年8月10日ころに123万2154円,同月22日ころに52万8066円の退職金を受領した。被告の退職は自己都合によるものであるため,定年等の場合の退職金の額に修正率55%を乗じた額が支給された。

2 争点(1)(本件競業避止条項の違反)について

(1)上記認定事実によれば,まず,被告が原告を退職した後1年以内にに入社したc社は,全国的に家電量販店チェーンを展開する会社であり,主たる業務内容において原告と直接競合する関係にあるから,本件競業避止条項にいう同業者に当たることは明らかである。したがって,被告がc社に入社したことは,本件競業避止条項に違反する。

(2)次に,b社は,携帯電話機の卸売りを主たる業務とする会社であるが,前記1(3)のとおり,c社のチェーン店が携帯電話機を仕入れるために設立された会社であり,子会社であって役員も共通するなどc社と密接な関係にあるのであって,実質的にはその一部門とみることが可能であるから,本件競業避止条項にいう同業者に当たると解すべきである。この点に関し,被告は,b社は実際の業態が原告と相違するので同業者には当たらず,本件誓約書との関係で問題が生ずることはないなどと主張する。しかし,前記認定事実によれば,c社が原告のライバル会社であり,b社がc社と密接な関係にあることはB及び被告において当然に認識していたとみられるから,被告の主張を採用することはできず,むしろ,Bは本件誓約書との抵触を回避するためにあえてb社への派遣という形をとり,被告はBの意図を理解してこれに従ったと解するのが相当である。

また,被告は,b社に派遣されることを前提に人材派遣会社に登録した上で,実際に派遣社員として稼働したのであるから,その行為は本件競業避止条項にいう「転職」に当たると考えられる。

したがって,被告が原告を退職した翌日からb社で稼働したことも,本件競業避止条項に違反するとみるべきである。

(3)さらに,被告による本件競業避止条項違反の具体的態様をみると,前記認定事実によれば,①被告の転職先は,原告のライバル会社であるc社及びその関連会社であったこと,②c社に入社すると本件競業避止条項に違反することを認識しつつ,派遣社員としてb社で稼働するという形を装ったこと,③原告在職中にc社の役員と面談して同社ないしその関連会社へ転職する話をし,退職前に転職先を確保した上で,原告を退職した翌日から稼働し始めたこと,④本件誓約書の作成時点で,退職後に直ちに本件競業避止条項に違反する状態が生ずることを認識しながら,それを秘匿して,本件誓約書を作成したことが明らかであり,これらの事情に照らすと,被告の違反行為は軽微なものでないということができる。

3 争点(2)(本件競業避止条項の有効性)

(1)本件競業避止条項は,原告の従業員であった被告が退職後に同業者に転職しないことを約したものである。会社の従業員は,元来,職業選択の自由を保障され,退職後は競業避止義務を負わないものであるから,退職後の転職を禁止する本件競業避止条項は,その目的,在職中の被告の地位,転職が禁止される範囲,代償措置の有無等に照らし,転職を禁止することに合理性があると認められないときは,公序良俗に反するものとして有効性が否定されると考えられる。

(2)前記認定のとおり,被告は,原告の成田店,横浜本店及び茅ヶ崎店の店長を歴任したことにより,原告の店舗における販売方法や人事管理の在り方を熟知し,母店長として複数店舗の管理に携わり,さらに,地区部長の地位に就き,原告の役員及び幹部従業員により構成される営業会議に毎週出席したことにより,原告の全社的な営業方針,経営戦略等を知ることができたと認められる。このような知識及び経験を有する従業員が,原告を退職した後直ちに,原告の直接の競争相手である家電量販店チェーンを展開する会社に転職した場合には,その会社は当該従業員の知識及び経験を活用して利益を得られるが(被告がc社に入社した後に給与等の面で優遇されたのは,被告の入社により同社が利益を得ることを示すものと考えられる。),その反面,原告が相対的に不利益を受けることが容易に予想されるから,これを未然に防ぐことを目的として,被告のような地位にあった従業員に対して競業避止義務を課することは不合理でないと解される。

また,この目的を達成するために,守秘義務(本件誓約書1項)及び情報記録媒体の持ち出し等の禁止(同2項)に加え,競業避止義務を課することにも格別不相当なところはないというべきである。

なお,原告は本件競業避止条項の目的は原告固有のノウハウ等の保護にあると主張しつつも,その具体的内容につき十分な立証を尽くしたとはいい難い。しかし,原告とc社の店舗における販売方法,人事管理等が全く同一であるとは考え難いこと,被告は,原告を退職後間もなくc社に入社した者として,両社の相違点やその優劣を容易に知り得る立場にあるのであって,原告固有のノウハウ等につき原告が具体的に主張立証しなくても,被告の防御権が侵害されることはないと解されること,原告が本件訴訟において原告の営業秘密にわたる事項を具体的に開示すると,被告を通じてc社に伝わり,原告に更なる不利益が生じかねないことに加え,前記2(3)のとおり本件における本件競業避止条項違反の態様が軽微なものではないことを考慮すると,この点は本件における有効性の判断を左右するものではないと考えられる。

(3)次に,転職が禁止される範囲についてみると,まず,本件競業避止条項の対象となる同業者の範囲は,家電量販店チェーンを展開するという原告の業務内容に照らし,自ずからこれと同種の家電量販店に限定されると解釈することができる。また,退職後1年という期間は,原告が本件競業避止条項を設けた前記目的に照らし,不相当に長いものではないと認められる。さらに,本件競業避止条項には地理的な制限がないが,原告が全国的に家電量販店チェーンを展開する会社であることからすると,禁止範囲が過度に広範であるということもないと解される。

なお,退職後の競業避止義務に関する約定が,その文言上,従業員の転職を極めて広く制限し,又は禁止の範囲があいまいにすぎるときは,約定自体が無効となる場合があると解され,また,被告は,この点に関して,原告の店舗の取扱商品が家電製品に限られず多岐にわたるので,転職禁止の範囲が極めて広範になる,本件競業避止条項の「最低1年間」という文言が禁止期間の定めとして不明確であるなどと主張する。しかし,本件競業避止条項にいう同業者の範囲は上記のとおり限定的に解釈することが可能である。また,原告と直接競合する家電量販店チェーンを展開するc社ないしこれと密接な関係にある会社が同業者に当たること,退職の翌日に転職することが本件競業避止条項により禁止されることは,その文言上明らかということができる。そうすると,本件においては,これを無効と解すべきほど条項の文言が不明確であるということはできないと解される。

(4)他方,本件誓約書により退職後の競業避止義務が課されることの代償措置については,原告が,役職者誓約書の提出を求められるフロアー長以上の従業員に対し,それ以外の従業員に比して高額の基本給,諸手当等を給付しているとは認められるものの(甲5),これが競業避止義務を課せられたことによる不利益を補償するに足りるものであるかどうかについては,十分な立証があるといい難い。しかし,代償措置に不十分なところがあるとしても,この点は違反があった場合の損害額の算定に当たり考慮することができるから,このことをもって本件競業避止条項の有効性が失われることはないというべきである。

(5)被告は,さらに,原告が強制的に本件誓約書を提出させたことからも,本件競業避止条項は公序良俗に反すると解すべきであると主張する。

しかし,本件誓約書の提出につき強制的な面があることは否定し得ないとしても,原告の側に提出を求める正当な目的があることは上記のとおりであるから,そのことから直ちに公序良俗に反するとみることは相当でない。そして,前記認定事実によれば,被告は本件誓約書の内容を理解した上でその作成に応じたと認めることができ,自由意思が抑圧されていたわけではない。そうすると,本件誓約書の作成及び提出の過程に違法があるとして本件競業避止条項の有効性が否定されることはないと考えられる。

(6)以上に加え,本件において,被告は,前記2(3)のとおり,本件競業避止条項に違反する状態が生ずることを認識しながら本件誓約書を作成し,退職の翌日に派遣社員という形を装ってc社の関連会社で働き始めたのである。このような事情の下で,本件競業避止条項が無効であるとして被告がその違反につき何ら責めを負わないと解することは,自己の真意を隠してこれに反する誓約をし,相手方を信頼させた上で,誓約を破ることを容認する結果になるのであって,相当でないというべきである。

(7)したがって,本件競業避止条項が公序良俗に反し無効であるとの被告の主張は採用することができない。

4 争点(3)(錯誤の有無)

前記認定事実によれば,被告は,店長である自らが退職する際には役職者誓約書を提出しなければならないこと,役職者誓約書に退職後1年間は同業者に転職しない旨の条項が含まれていること,被告が退職後にc社ないしその関連会社に転職すればこの条項に違反する状態になることを当然に認識した上で,本件誓約書を作成して原告に提出したと認めることができる。そうすると,被告に錯誤があったとみる余地はなく,被告の主張は失当というべきである。

5 争点(4)(承諾の有無)について

被告は,原告を退職してc社ないしその関連会社に転職した複数の元従業員につき,原告代表者が「D以外は許す」旨の発言をしたことをもって,被告の転職につき原告の承諾があったから,被告の行為は本件競業避止条項の違反に当たらないと主張する。

しかし,前記認定の事実関係によれば,平成17年5月19日に原告代表者及びCがBと会談した際,原告代表者がD以外は許す旨の発言をしたと認められるものの(なお,被告は,同日の会談以外にも,Cが,Bと電話及び面談をした際に,原告代表者がD以外は許すと言っている旨を伝えたと主張するが,これを認めるに足りる証拠はない。),上記会談は,原告とc社の間の業務上の諸問題につき協議することを目的とするものであり,その席上,原告を退職した元従業員の転職が話題になったにとどまると解される。そうすると,原告代表者の上記発言は,あくまでも原告とc社という会社間の問題として,D以外の元従業員の転職の是非ないし当否を取り上げることはないと表明したものと解すべきであり,元従業員の個人責任とは無関係なものであって,被告に対する本件誓約書に基づく違約金の支払請求権(以上の説示から明らかなとおり,原告代表者の上記発言の時点で,原告の請求権は既に発生していたと認められる。)を放棄し,今後一切の責任追及をしないことを言明したものと解釈することは相当でないというべきである。

したがって,この点についても被告の主張を採用することはない。

6 争点(5)(損害賠償の額)について

(1)原告は,被告が本件競業避止条項に違反したことにつき,本件違約金条項に基づき,退職金の半額及び退職直近の給与6か月分相当の違約金の支払を請求する。しかし,本件違約金条項が,本件誓約書に違反する行為があった場合に,違反の態様等を区別することなく,「損害賠償他違約金として,退職金を半額に減額するとともに直近の給与6ヶ月分に対し」と規定していることに照らすと,原告に退職金の半額及び給与6か月分を超える損害が現実に生じた場合に原告がそれを立証して損害賠償を請求することができるかどうかはともかく,本件のように原告がその立証をしない場合には,違約金の上限を退職金の半額及び給与6か月分に相当する額と定めたものであり,その範囲内で,違反の態様,原告及び退職者に生じ得る不利益等を考慮して,違約金の額を算定すべきものと解するのが相当である。

(2)本件においては,まず,退職金の半額とする部分についてみると,退職金が原告の退職金規程に従って支払われるものであり,自己都合による退職金は定年等の場合の退職金の額に所定の修正率を乗じた額に減じられる旨の定めがあることなどに照らすと,退職金には賃金の後払としての性格と共に功労報償的な性格もあると解することができる。そうすると,本件違約金条項は,被告が本件誓約書に違反して同業者に転職したことにより,原告に勤務していた間の功労に対する評価が減殺され,退職金が半額の限度でしか発生しないとする趣旨であると解することが可能であるから,退職金の全額を支給した原告がその半額を違約金として請求することは不合理なものでないと考えられる。

次に,給与6か月分とする部分についてみると,給与は現実に稼働したことの対価として支給されるものであること,これをすべて違約金とした場合には被告に生ずる不利益が甚大であるのに対し,被告が本件誓約書に違反したことにより原告に具体的な損害が生じたとの立証はないことに照らすと,その全部を本件の違約金とすることは相当でない。しかし,被告による違反の態様が前記のとおり軽微なものではなかったこと,すなわち,被告が,原告在職中にc社の専務取締役と面談し,b社で派遣社員として働くことを決めた上で原告を退職し,退職の翌日からb社での勤務を開始して給与の支払を受けるようになったこと,他方,被告が原告を退職した後に転職先を探したとすれば,少なくとも1か月程度は給与の支払を受けられない期間があったであろうこと,被告が家電量販店又はその関連会社以外の職種に転職した場合には,給与等の面で優遇を受けられなかったであろうことといった本件の諸事情を考慮すると,給与の1か月分相当額の限度で,これを違約金とすることに合理性があるというべきである。

(3)そうすると,本件における違約金の額は,原告が被告に支給した退職金176万0220円の半額の88万0110円に,被告が退職する前の直近6か月間の給与331万5871円の6分の1に当たる55万2645円を加えた143万2755円であると判断するのが相当である。

7 以上によれば,原告の請求は,143万2755円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。

よって,主文のとおり判決する。

(大阪地裁平成21年10月23日判決)

第3 当裁判所の判断

1 本件就業規則への変更の有効性について

就業規則の変更については,労働契約法の施行の前後を問わず,これが周知されていること及び変更についての合理性が必要である。

(1) 周知の点について

債務者らが加入していたユニオンおおさか(〈証拠省略〉)が平成20年8月20日,債権者に対して送付した「要求並びに団体交渉申入書」(〈証拠省略〉)には,「会社就業規則のうち,第5条の⑲,⑳,第9条,第11条第3項,第13条第22条,第38条を適用しないこと」との要求が記載されており,遅くともこの時点までに競業避止義務に関する本件就業規則の変更の存在が債務者らの知るところとなり,団体交渉の主題とする必要があることが認識されていたことがうかがわれるので,遅くとも平成20年8月20日までには,本件就業規則の変更は,周知されていたと認められる。

(2) 変更の合理性について

債権者のホームページ(〈証拠省略〉)の他,めっき加工業を行う会社のホームページの各印刷物が疎明資料として多数提出されている(〈証拠省略〉)。また,めっきに関係する薬品を販売する会社が発行している技術資料(〈証拠省略〉)や,「工業用クロムめっき」と題する大阪府鍍金工業組合作成に係る大阪高等めっき技術訓練校の教科書(〈証拠省略〉),さらには「陽極酸化染色処理」と題する論文(〈証拠省略〉)も疎明資料として提出されている。

そこで,これらを検討するに,債権者のホームページにおいては,「広範な専門知識とこれまでに培った豊富な独自のノウハウで様々なご要望にお応えしています。」との記載がある(〈証拠省略〉)。別の会社でも,「半世紀にわたって蓄積されたノウハウと高度な管理技術を駆使して信頼性の高い,均質な製品をお届けしてます。」(〈証拠省略〉),「従来,至難とされてきたこれらの素材や製品の表面処理に,長年蓄積された多彩なノウハウで確実にお応えします。」(〈証拠省略〉),「精密機能めっき。その技術開発に力を注いできた(中略)では,シリコンウエハー上のバンプめっきでは業界に先駆けて半田バンプの加工に成功しています。」(〈証拠省略〉),「私たちは永年蓄積してきた化学処理プロセスの技術による裏付けと全員参加の品質管理」(〈証拠省略〉)等の記載がある。さらに別の会社でも,「今まで培ってきた経験と技術」,「長年に亘り積み重ねた経験と,新しい技術開発」との記載や(〈証拠省略〉),「下地処理+めっき+後処理の組み合わせにより,各種素材にオリジナルな表面処理を実現させます。」等の記載がある(〈証拠省略〉)。もう1社は,工業用硬質クロームメッキを扱っているが,「メッキ膜厚などはミクロン単位の均一な高精度が要求され当社で熟練したベテラン社員の手により一品一品丹精込めて加工し」との記載がある(〈証拠省略〉)。別の1社のホームページには,「シーズのご提供」として「Ni-Fe,Ni-Coを用いた電鋳技術」を挙げており(〈証拠省略〉),めっき技術を他の産業に応用する際の技術提供を業務として行っていることがうかがわれる。

また,大阪高等めっき技術訓練校の教科書(〈証拠省略〉)では,様々な形状の製品に対し,均一なめっきを行うためには,補助極やしゃへい板を用いることが必要であるところ,めっきを行う際の「補助極,しゃへい板の使用は工業用クロムめっきの工場での最大のノウハウである。」としている。

これらからすると,めっきやこれに関連する金属表面処理については,各社が独自に培ってきた技術やノウハウが相当程度存在していることがうかがわれる。なるほど,少なからぬ技術的資料が公開されていることも認められるが,そもそも技術的資料が少なくないことからしても,めっきや金属表面処理について,技術的問題が多数存在し,その解決のために様々な工夫が凝らされていることをうかがわせる。また,公開されている資料として提出されているもののほとんどが,めっきに関係する薬品を販売する会社によるものであって,販売促進の目的で技術的事項を敢えて公開している可能性が否定できない。さらに,公開されている資料からは,製品の形状や素材に応じた具体的なめっき加工等の手順等までうかがい知ることはできず,そのような領域では,独自の技術やノウハウが成立し得ることがうかがわれる。

そして,債権者を含む各社のホームページ上の記載からすると,広く知れ渡った技術に基づいて製品を加工しているために価格競争を行っているとか,特殊な設備に頼った営業をしているとかだけに留まらず,各社が独自の技術やノウハウを確保し,これを武器として市場に独自の領域を確保して営業を行っていることがうかがわれる。

債権者においても,「品質マニュアル プロセスの妥当性確認の実施記録」と題する書面の作成を従業員に励行させたり(〈証拠省略〉),アルマイト処理日報等の作成を従業員に励行させたりする等(〈証拠省略〉),技術やノウハウの蓄積を行っていたことがうかがわれる。これらからすると,債権者において,めっき加工や金属表面処理に関し,独自の技術やノウハウが存在することについて,一応の疎明があったものと認められる。

また,前述したところによれば,これら債権者の技術やノウハウのうちには,債権者をめっき加工や金属表面加工の市場において,独自の市場を有する独自の存在たらしめ,その営業を成立させているものがあると解するのが相当である。

この点,債務者らは,債権者が希望退職を募った際に競業避止義務を免除するとしていたことを捉え,債権者には,保護すべき秘密は存在しない旨主張する。確かに,競業避止義務を免除した希望退職募集の事実は認められるが(〈証拠省略〉),希望退職は,必要に迫られ止むを得ず実施するもので,一定の損失や危険を覚悟の上で従業員らに対し,好条件を提示することもあり得るものである。債権者においても,当時,経営状況が厳しくなっているとの認識が示されており(〈証拠省略〉),希望退職の際に競業避止義務が免除されていたとしても,これを重視することはできない。

これらを前提とすると,債権者には,その技術やノウハウについて,これを債権者独自のものとして維持すべく,退職後の秘密保持義務を就業規則によって定める必要性は,認められる。

また,技術やノウハウは無形の存在であり,その秘密の流出が必ずしも容易に認識できるわけではないことからすると,秘密保持に実効性をあらしむべく退職後の競業避止を就業規則によって定める必要性も認められる。

他方,変更された本件就業規則は,秘匿すべき技術やノウハウを具体的に摘示すること自体が秘密保持に有害となりかねないという事柄の性質により秘密の範囲の定め方について,いささか抽象的であるとの感が否めないにせよ,競業避止義務については,期間を1年間と限定しており,一応,合理的範囲に限定されている。また,競業をしたり,在職中に知り得た顧客との取引を禁じるに留まり,就業の自由を一般的に奪ったりするような内容とはなっていない。

これらに加え,本件就業規則への変更に異議がない旨の従業員代表としての債務者Y3の署名のある意見書が存することからすると(〈証拠省略〉),本件就業規則への変更については,合理性が存し,有効であることについて,一応の疎明があったものと認められる。

2 競業避止義務規定の有効性について

(1) 退職後の競業避止義務は,労働者の生計手段である職業遂行を制限するものであり,特に,本来,当該労働者が新たな職業に就く上で最も有力な武器となる職業経験上の蓄積を活用することを困難にするものであるから,その義務の存在を認めるについては,一定の慎重さが要求される。しかしながら,必ずしも使用者と労働者との間の個別の合意によってしか定められないものではなく,就業規則によって定めることも許される。なぜなら,一定の限度では,企業の正当な利益を守るために使用者が労働者にかかる義務を課すことが避けられないし(例えば,個人情報の保護に関する法律21条は,個人情報取扱事業者に対し,従業者に対する監督を義務づけているが,これは離職後に個人情報を流出させることをも防止する措置を採る義務を課している趣旨と解される。),かかる義務について,個別の合意を俟たず,企業秩序維持のために画一的に義務を課す必要性も否定し難いからである。

もっとも,前記のとおり,退職後の競業避止義務を定めることは,労働者の生計手段の確保に大きな影響を及ぼすので,その効力については,慎重に検討することが必要であり,競業避止を必要とする使用者の正当な利益の存否,競業避止の範囲が合理的範囲に留まっているか否か,代償措置の有無等を総合的に考慮し,競業避止義務規定の合理性が認められないときは,これに基づく使用者の権利行使が権利濫用になるものと解するべきである。

(2) そこで先ず,競業避止を必要とする使用者の正当な利益の存否について検討するに,前記1(2)で摘示したように,債権者については,めっき加工や金属表面処理加工について,法的保護に値する独自の技術やノウハウが存し,競業避止を必要とする正当な利益が存在することについて,一応の疎明がなされていると認められる。

(3) 次に,競業避止の範囲が合理的範囲に留まっているかについても,前記1(2)で摘示したように,秘匿すべき技術やノウハウを具体的に摘示すること自体が秘密保持に有害となりかねないという事柄の性質により,秘密の範囲の定め方について,いささか抽象的であるとの感が否めないにせよ,競業避止義務については,期間を1年間と限定しており,一応,合理的範囲に限定されている。また,競業をしたり,在職中に知り得た顧客との取引を禁じるに留まり,就業の自由を一般的に奪ったりするような内容とはなっていないので,合理的範囲に留まっていることについて,一応の疎明がなされていると認められる。

(4) 代償措置等について検討するに,債権者には退職金を支給する旨の就業規則が存在すること(〈証拠省略〉),債権者在職中の債務者らの待遇は,年収660万円以上と低賃金とは言い難いこと(〈証拠省略〉)等の点からすると,競業避止義務に対する相応の措置がとられていることについて,一応の疎明がなされていると認められる。

3 保全の必要性について

製造職であった債務者らが債権者と同様の業務を営む東和理研に就職し,東和理研が債権者と同様の業務を現に行いつつあることからすると(〈証拠省略〉),製造業務に債務者らが従事することについては,保全の必要性について,一応の疎明があったものと認められる。なお,債務者らは,債権者の創業メンバーの1人であり前代表者代表取締役が現在の東和理研の代表者代表取締役であるから,東和理研との関係では秘密が存しない旨主張するが,東和理研の代表者代表取締役が全ての債権者独自の技術やノウハウについての知識を有しているとは考えにくいし,債権者を去った後に開発された技術やノウハウについての知識を有しているとはなおさら考えにくいので,採用できない。

他方,債務者らは営業職には従事していなかったものであり,東和理研に転職後も営業職に従事していることをうかがわせる疎明資料は見あたらないので,営業に従事することを差し止めることを求める部分についての保全の必要性は,所要の疎明がなされていない。

また,債務者らが営業に従事していたことがうかがわれない以上,取引先についての機密を開示,漏洩,提供,持ち出し等する差し迫った危険についての疎明は不足している。

さらに,硬質クロムめっき,バフ研磨,アルマイト,無電解ニッケルめっき等の各種めっき加工及び金属表面処理を施した製品についての機密を他に開示,漏洩,提供,持ち出し等する差し迫った危険についても,これらの各種めっき加工及び金属表面処理を施した製品の製造業務に従事することを差し止めることで回避できないほどの差し迫った危険が存するかについては,なお疑問の余地があり,疎明が不十分である。

4 担保額について

各債権者らが本件仮処分によって被る可能性のある損害は,東和理研の業務に従事することができなくなることにより得べかりし賃金相当額と考えられるところ,東和理研における賃金額は,従前,債権者から得ていた賃金額に遜色ないものと推定される。これに差し止めの期間を考慮すると,担保額は,以下のとおりとすべきである。

債務者Y2について 40万円

債務者Y4について 40万円

債務者Y5について 30万円

債務者Y6について 10万円

5 まとめ

以上によれば,債務者Y2,債務者Y4,債務者Y5及び債務者Y6に対する各申立については,製造業務への従事についての仮の差し止めの申立の限度で理由があるからこれを仮に差し止めるのが相当であり,その余の申立は理由がないからいずれも却下することとして,主文のとおり決定する。

(東京地裁平成22年9月30日決定)

第3 当裁判所の判断

1 争点(1)(本件競業避止条項に係る合意の成否)について

(1) 債務者は、本件競業避止条項のある執行役員契約書が債権者から送付されたのは、執行役員の任期が開始された後の毎年1月下旬以降であり、執行役員契約書への署名捺印を拒否できる状況になかった上、債権者から本件競業避止条項の目的、具体的な制限の内容及び範囲、代償措置等について一切説明も受けていないから、本件競業避止条項に係る合意は成立していないと主張する。

(2)ア 書証(省略)及び審尋の全趣旨によれば、債務者は、平成17年8月1日、債権者の執行役員に就任した後、平成18年から平成22年まで、毎年1月1日付けで任期1年間の執行役員として就任し、1年ごとに、本件競業避止条項のある執行役員契約書に署名してきたのであり、新たな任期を開始するに当たっては、当然、本件競業避止条項の存在を承知の上で執行役員としての業務を開始したものと一応認められる。

また、執行役員への就任後であっても、本人が希望する場合には、競業避止義務を負わない地位への降格もあり得るのであり(書証省略)、債務者の経歴やそれまでの債権者へ貢献にかんがみれば、執行役員契約書への署名捺印を拒否したとしても、直ちに債権者における職を失う具体的なおそれがあったとは認められない。

よって、執行役員契約書への署名が任期開始後であったとしても、それをもって本件競業避止条項に係る合意が成立していないということはできない。

イ また、書証(省略)及び審尋の全趣旨によれば、債務者は、平成16年5月28日、営業推進部長に就任した際にも、競業避止契約締結の理由及び背景を記した「競業避止契約書の締結について」と題する書面の交付を受けた上で、「競業避止及び秘密保持に関する契約書」に署名しており、同契約書には競業避止義務に関する条項として、「日本国内で、債権者と同一の第3分野の保険を主として販売する保険会社をはじめとする同業他社(生命保険会社および損害保険会社、その関連会社のうち、当該保険会社を実質的にコントロールするか若しくはその経営に影響を及ぼす会社、今後日本で保険業を行う予定の外国会社の役員になること及び顧問、従業員、その他名称を問わず雇用関係を締結すること」を辞職後2年間行わない旨の規定がある上、上記アのとおり、執行役員就任後も、毎年、執行役員契約書の交付を受け、本件競業避止条項の存在を承知の上で契約書に署名しているのであるから、債務者は本件競業避止条項の内容を理解していたものと一応認められる。

よって、債務者が主張するような事前説明がなかったとしても、それをもって本件競業避止条項に係る合意が成立していないということはできない。

(3) よって、債権者と債務者の間では本件競業避止条項に係る合意が成立したと一応認められる。

2 争点(2)(本件競業避止条項に係る合意の有効性)について

(1) 債務者は、本件競業避止条項に係る合意は、債務者にとって著しく不利益なものであるから、公序良俗(民法90条)に反し、無効であると主張する。

この点、一般に労働者には職業選択の自由が保障されている(憲法22条1項)ことから、使用者と労働者との間に、労働者の退職後の競業につきこれを避止すべき義務を定める合意があったとしても、使用者の正当な利益の保護を目的とすること、労働者の退職前の地位、競業が禁止される業務、期間、地域の範囲、使用者による代償措置の有無等の諸事情を考慮して、その合意が合理性を欠き、労働者の職業選択の自由を不当に害するものであると判断される場合には、公序良俗に反するものとして無効なものになると解される。

そこで、以下、この点について検討する。

(2) 本件競業避止条項の目的

ア 債権者が債務者との間で本件競業避止条項に係る合意をした目的は、以下のとおり、債権者の営業上の秘密及び保険代理店との人的関係の維持を実質的に担保することにあると認められる。

イ 債権者の営業上の秘密について

(ア) 疎明資料(省略)及び審尋の全趣旨によれば、次の事実が一応認められる。

a 債権者の営業上の秘密には、①債権者の中長期的及び年度単位の経営計画及び経営資源の配分方針、その重点テーマ及び推進策、主要経営指標の目標に関する情報のほか、②営業状態、営業課題、営業戦略、営業支援策・営業施策、営業ノウハウ、債権者全体の販売見込や実績、地域ごとの営業特性・傾向、③債権者が収集した保険代理店の詳細な事業特性、沿革、実績、営業方針、経営状況、関係会社・団体との関係、経営者の特性・個性や考え方、内部事情、地域ごとのマーケットの状況等に関する情報がある。

b 上記営業上の秘密には、①保険料収入金額、資産運用収益額、販売実績、保有契約実績、代理店登録数等に関する情報、②新たな保険商品の種類、開発計画、計画の進捗状況及び販売時期等に関する情報、③営業基本戦略の策定とそれに基づく代理店に対する新たな手数料体系及び営業施策費の改定プロジェクト、その計画及び新手数料体系の適用時期、代理店の支援内容(ステージに応じた手数料の上乗せ等)に関わるランク制度の在り方等に関する情報、④債権者の保険商品を扱う保険代理店同士の業務提携の在り方や今後の方針、業務提携を実現させるためのノウハウ、保険代理店間の人的関係など、保険募集のプロセスを構築するための営業施策に関する情報、⑤債権者の保険商品を扱っている保険代理店の名簿、各保険代理店へ支払っている手数料や営業施策費の種類及び額、各保険代理店のランク、特徴、実績及びニーズ、各保険代理店のキーマンや人的関係等に関する情報などが含まれる。

(イ) 上記のとおり、債権者には様々な営業上の秘密があるが、債権者の競業他社は、例えば、債権者の新たな保険商品に関する情報を入手した場合には、新商品販売開始をターゲットとして、自社商品のマーケティング戦略を立てることができ、債権者の新商品と競争できる自社商品の開発を早めに着手したり、既存の自社商品を改めるなど、自らの利益に使って、債権者に対して優位な地位に立つことが可能である。

また、保険代理店の収入は保険会社からの手数料や営業施策費から構成されているため、手数料や営業施策費の在り方は、保険代理店にとって、どの保険会社のどの商品を優先的に販売するかを決める上で重要な要素となる。競業他社が、債権者の既存又は新たな手数料体系及び営業施策費に関する情報を入手した場合には、これに対抗する手数料及び営業施策費を提案することによって、自社商品を優先的に販売してもらうことも可能である。

ウ 債権者の保険代理店との人的関係について

債権者には保険商品を顧客に直接販売するいわゆる営業職員がいないため、債権者の保険商品の販売は、専ら保険代理店及びそれに所属する募集人が担っており、債権者の営業成績(例えば、平成20年度における個人保険の分野における新契約成績は、件数151万8561件、1年分の保険料約1兆0474億4300万円)は、すべて保険代理店による保険商品販売の成果に左右されていると一応認められる(書証(省略)、審尋の全趣旨)。

そして、各地域を統括する営業担当の執行役員と各保険代理店の経営層との人的関係は、債権者の顔として、執行役員という地位にあるからこそ形成できるものも多く、債権者の力や影響力を背景に営業活動をした成果といえるから、単に労働者個人が日常的な業務遂行の過程により獲得した人的関係というにとどまらず、債権者が開拓した各保険代理店との人的関係と評価すべき面が大きい。

このように、保険商品を直接販売せず、専ら保険代理店に依存している債権者のような会社については、保険代理店の経営方針が債権者の収益に直結するものであるから、各保険代理店との関係が極めて重要となるのであり、債権者の執行役員と各保険代理店の経営層との高いレベルでの人的関係は、債権者にとってコストを伴っても維持する必要のある重要な財産であり、保護に値する利益の一つというべきである。

ただし、かかる利益は、営業上の秘密とは異なり、上記のとおり、属人的要素が強いから、これのみを過大評価することには慎重でなければならず、他の要素を考慮の上で、競業避止の合意の有効性を判断する必要がある。

エ 従って、債権者の営業上の秘密及び保険代理店との人的関係の維持を実質的に担保することを目的とする本件競業避止条項に係る合意は、債権者の正当な利益の保護を目的とするものと認めることができる。

(3) 債務者の地位

当事者間に争いのない事実、疎明資料(省略)及び審尋の全趣旨によれば次の事実が一応認められる。

ア 債務者は、平成16年1月から、営業部門全体の企画・立案・統括部門である営業推進部の部長に就任した。その際、債務者は、「競業避止及び秘密保持に関する契約書」に署名した。

営業推進部は、営業支援策の企画・立案・推進・管理、特殊団体募集の推進、営業活動効率化のための企画・立案・推進、営業方針徹底のための諸施策の実施、市場の開発・深耕及び開発深耕策の立案、営業推進に関わる計数管理などを所管し、債権者の営業支援策、営業施策及び営業ノウハウの中枢を把握・立案・発信する部門である。

イ(ア) 債務者は、平成17年8月1日から、四国営業本部(高松支社、松山支社、徳島支社、高知支社を統括)及び中国営業本部(岡山支社、広島支社、山口支社、鳥取支社、島根支社を統括)の担当執行役員に、平成19年1月1日から、東京テリトリー(東京都内の金融機関系列の代理店を担当する金融第一支社から金融第四支社、東京都内の鉄鋼・機械・金属・電機・自動車・精密・食品・医科学・石油その他のメーカー系列の代理店を担当する系列法人第一支社から系列法人第五支社、東京都内における独立法人タイプの代理店を担当する独立法人第一支社から独立法人第四支社の合計13支社で構成)の担当執行役員に、平成21年1月1日から、近畿地区(大阪府、京都府、兵庫県)の全ての企業系列法人代理店を担当する執行役員にそれぞれ就任した。

各地域の担当執行役員は、当該地域の営業部門を統括する地位にある。

(イ) 債務者は、執行役員在任中、債権者におけるがん保険及び医療保険に係る一般代理店について、保有契約実績トップ100社(全社に占める割合は44パーセント)のうち合計43社(全社に占める割合は27パーセント)、新契約実績トップ100社(全社に占める割合は29パーセント)のうち合計37社(全社に占める割合は9パーセント)を担当していた。

(ウ) 債権者の執行役員は、債権者の重要な経営課題を審議する最上位の会議体であるエグゼグティブコミッティ(参加資格は常務執行役員以上)の会議資料や議事録を格納するデータベースへのアクセス権限が付与されており、会議前に会議資料をデータベースに掲載した旨、会議後に議事録を掲載した旨のメールを受け取り、その内容を確認できる地位にある。

上記会議資料等には、新たな保険商品の種類、開発計画、計画の進捗状況及び販売時期等に関する営業上の秘密や、営業基本戦略の策定とそれに基づく代理店に対する新たな手数料体系及び営業施策費の改定プロジェクト、その計画及び新手数料体系の適用時期等に関する営業上の秘密などが含まれていた。

また、執行役員は、経営に係る重要な情報を経営レベルで共有するための会議体である経営委員会に参加する資格があり、新商品のプロモーションや営業に関する重要なプロジェクトの内容及び進捗状況など、経営に係る重要な情報を取得できる地位にある。

さらに、執行役員は、債権者の重要な経営情報(保険料収入金額、資産運用収益額、販売実績、保有契約実績及び代理店登録数等の情報)が格納されたデータベースへのアクセス権限が付与され、毎月、上記経営情報がデータベスへ掲載された旨のメールを受け取り、その内容を確認できる地位にある。

ウ 債務者は、上記ア及びイの地位を通じて、上記(2)イ(ア)に記載した債権者の営業上の秘密を把握してきた。

また、債務者は、これらの地位を通じて、多くの保険代理店の経営層との間で人的関係を構築し、特に、債権者の販売成績上位の代理店の多くを担当し、それらの代理店の経営層との間で密な信頼関係・人的関係を構築してきた。

エ なお、債権者には、平成22年9月15日時点において、合計4066名の役員及び従業員が在籍しているところ、債権者との間で退職後の競業避止義務に関する合意を締結しているのは、社長1名、常務執行役員(上席を含む。)7名、執行役員26名、部長職社員5名、顧問(役員待遇)5名、法律顧問(嘱託社員)の合計49名(全体に対する割合は約1.2パーセント)に限られている。

(4) 禁止される業務、期間、地域

ア a生命は、債権者と同様、日本全国において医療保険やがん保険という第3分野の保険商品を販売している生命保険会社であり、債権者と競業する会社であると一応認められる(書証省略)。

そして、債権者が競業の禁止を求めているのは、a生命の取締役、執行役及び執行役員の業務並びに同社の営業部門の業務に関する競業行為であり、一応限定がなされている。

イ 他方、債権者が求めている競業避止期間は2年間である。

しかし、債権者の執行役員の任期は、更新があり得るものの、1年間と比較的短期間であること(書証省略)、債権者のような生命保険会社の営業上の秘密は、製造企業において長年使用される技術等の秘密と異なり、新商品や手数料体系など、時々刻々と変化するマーケットの中における情報が多く、一定期間を経て公開され又は秘密でなくなるものも多いことが一応認められる(書証省略)。

かかる事情や職業選択の自由の重要性にかんがみると、競業避止期間については、これを1年間と解する限りにおいて、その合理性を認めることができる。

ウ 債権者の申立ては、競業避止の地域的制限を欠いているが、債権者が日本全国において営業を展開しており、債権者と競業するa生命も日本全国において営業を行っていることにかんがみると、地域的制限を設けないこともやむを得ないところであるから、不合理であるとはいえない。

(5) 代償措置

ア 当事者間に争いのない事実、疎明資料(省略)及び審尋の全趣旨によれば、次の事実が一応認められる。

(ア) 債務者の執行役員就任前の年収(報酬及び賞与の合計額。年換算。)は、1922万2226円であったが、執行役員就任後の年収(報酬及び賞与の合計額。年換算。)は、次のとおりであった。

平成17年 2635万6000円

平成18年 2230万円

平成19年 4792万1698円

平成20年 2828万6200円

平成21年 3686万8712円

なお、賞与の最低額は0円(平成18年)、最高額は2522万1698円(平成19年)であった。

(イ) 債務者は、債権者から、東北営業本部秋田支社長に就任した後の平成8年から執行役員に就任した平成17年までの間に、合計3万株のストックオプションの付与を受けた。

他方、債務者は、執行役員就任後の約5年間に、合計4万9500株のストックオプション及び合計8250株の制限付株式の付与を受けた。

(ウ) 債務者は、平成17年8月に執行役員に就任するに際し、同年7月までの退職金として1612万3000円が支払われているところ、今般、平成22年9月30日に債権者を退職する場合、平成17年8月から平成22年9月までの5年2か月にわたって執行役員を務めたことによる退職金は、執行役員契約書の規定に基づく計算によれば、3357万5000円となる(ただし、執行役員契約書上は、本件競業避止義務条項等の規定に違反しないことが前提とされている。)。

イ 上記アによれば、債権者においては、本件競業避止条項に対する明示的な代償措置としての報酬項目が設けられているわけではないが、債務者は、執行役員の地位において相当な厚遇を受けていたものということができる。

そして、かかる厚遇は、そのすべてを純粋に執行役員としての労働の対価であるとみることはできず、本件競業避止条項に対する代償としての性格もあったと一応認められる。

(6) 以上の諸事情を勘案すると、本件競業避止条項に係る合意は、不利益に対しては相当な代償措置が講じられており、a生命の取締役、執行役及び執行役員の業務並びに同社の営業部門の業務に関する競業行為を債務者が退職した日の翌日から1年間のみ禁止するものであると解する限りにおいて、その合理性を否定することはできず、債務者の職業選択の自由を不当に害するものとまではいえないから、公序良俗に反して無効であるとは認められない。

3 争点(3)(債務者の競業行為によって債権者の営業上の利益が現に侵害され、また具体的に侵害されるおそれがあるか否か)について

(1) 競業行為の差止請求は、職業選択の自由を直接制限するものであり、退職した役員又は労働者に与える不利益が大きいことに加え、損害賠償請求のように現実の損害の発生、義務違反と損害との間の因果関係を要しないため、濫用のおそれがある。

よって、競業行為の差止請求は、当該競業行為により使用者が営業上の利益を現に侵害され、又は侵害される具体的なおそれがあるときに限り、認められると解するのが相当である。

(2) 当事者間に争いのない事実、疎明資料(省略)及び審尋の全趣旨によれば、次の事実を一応認めることができる。

ア 債務者は、平成22年7月30日、債権者の執行役員であるBに対し、債権者を退職し、同年10月1日付けでa生命に転職する旨述べた。

イ 債務者は、同年8月13日、上席常務執行役員(全営業・全マーケティング担当)であるCに対し、同年9月30日をもって退職する旨の退職届を提出し、a生命に転職する旨述べた。

ウ その後、債務者は、同年8月20日、債権者の執行役員、統括法律顧問、コンプライアンスオフィサーであるD及び人事部長のEと面談し、a生命への転職は契約違反である旨の説明を受けた。

(3) 上記(2)のとおり、債務者は、平成22年7月30日から、債権者と競業する会社であるa生命に転職する旨繰り返し述べ、前記前提事実のとおり、同年10月1日からa生命に就職することを予定しているところ、債務者の経歴にかんがみると、a生命の経営や営業に直接関わる部門の要職に就く可能性が極めて高いと一応認められる。

しかし、債務者は、上記2(2)及び(3)のとおり、債権者の様々な営業上の秘密を把握している上、債権者の執行役員として、販売成績上位の保険代理店を含む多くの保険代理店の経営層との間で密な信頼関係・人的関係を構築してきた。

それゆえ、債務者が、a生命に就職し、同社の取締役、執行役若しくは執行役員の業務又は同社の営業部門の業務に従事し、債権者の営業上の秘密や保険代理店の経営層との高いレベルでの人的関係を利用して、商品のマーケティング戦略を立て、企業系列の大規模な保険代理店などのマーケットに働きかけ、債権者に対抗し得る商品等の提案を行って営業活動を展開すれば、医療保険やがん保険等の商品について、債権者とa生命間のシェアを塗り替えることも可能となると考えられる。

かかるシェアの奪取は、必ずしも債務者個人が単独で行い得るものではなく、a生命のマーケティング部門、営業管理企画部門及び戦略企画部門等の会社組織が一体となって行い得るものであるが、債務者が保有する債権者の営業上の秘密や保険代理店との高いレベルでの人的関係を利用した場合にはその効果が一段と発揮され、a生命が債権者に対して優位な地位に立つことができる。これは、債務者がa生命に就職した後に新たに開発される保険商品等だけでなく、既存の保険商品等を利用又は改革し、営業活動を展開することによっても可能であるといえる。

(4) よって、債務者の競業行為によって、債権者の営業上の利益を侵害される具体的なおそれがあると一応認められる。

4 以上によれば、債権者には、本件競業避止条項に係る合意により、平成23年9月30日までの間、a生命の取締役、執行役及び執行役員の業務並びに同社の営業部門の業務に従事することについて、債務者に対する差止請求権があると認められる。

5 争点(4)(保全の必要性の有無)について

前記のとおり、債務者は、平成22年10月1日から債権者と競業する会社であるa生命に就職することを予定しているところ、債務者の経歴にかんがみると、a生命の経営や営業に直接関わる部門の要職に就く可能性が極めて高く、その結果、上記3のとおり、債権者の営業上の利益が侵害される具体的なおそれがあるのであり、債権者及びa生命の企業規模にかんがみると、債権者に生じる損害の程度も著しいものとなると一応認められる。

よって、現時点において、債務者がa生命の取締役、執行役及び執行役員の業務並びに同社の営業部門の業務に従事することを差し止める必要性が認められる。

第4 結論

以上によれば、本件申立ては、平成23年9月30日までの間、主文第1項記載の業務の差止めを求める限度で理由があるから、これを一部認容し、その余の点については理由がないから、これを却下することとし、主文のとおり決定する。

以上